2021年のスポーツ界における印象的なシーンを『THE DIGEST』のヒット記事で振り返る当企画。今回は、涙ながらに引退会見に臨んだ松坂大輔にクローズアップする。キャリアの全盛期と思われた2009年から「肩が痛くない投げ方をしていた」という平成の怪物は、怪我と戦い続けた選手人生を赤裸々に回想した。
記事初掲載:2021年10月19日
【動画】“感謝”の気持ちを込めた! 松坂大輔、全身全霊で投げたラスト5球をチェック
――◆――◆――
「投げるのが怖くなった」
これは松坂大輔が、引退会見の場で漏らした言葉だ。彼の全盛期を目の当たりにしてきた筆者からすれば、ショッキングだった。
松坂が残してきた功績は申し分ない。3度の最多勝に、4度の最多奪三振に加えて、2001年には沢村賞にも輝いた。2006年から挑戦したアメリカでも通算56勝を挙げ、2007年にはボストン・レッドソックスのワールドシリーズ制覇に貢献した。
球史に語り継がれるであろう伝説的なシーンも残してきた。なかでも、プロデビューを飾った1999年の5月16日、当時オリックスに所属していたイチローとの初対決で、3打席連続三振に切って取ったピッチングは圧巻の一語。試合後のヒーローインタビューで残した「自信が確信に変わりました」という名台詞を覚えている人も少なくないはずだ。
多士済々のプロ野球界で、23年もプレーした事実が何よりも松坂の力を物語る。しかし、日本球界で数多の名シーンを創出してきた“エース”は、自身のキャリアを「半分以上は怪我との戦いだった」と振り返る。
「最初の10年があったからここまでやらせてもらえたと思っている。僕みたいな人はなかなかいないんじゃないですかね。一番良い思いと、自分で言うのもなんですけど、どん底も同じぐらい経験した選手はいないかもしれない」
2009年以降は「肩が痛くない投げ方、痛みが出ても投げられる投げ方をしていた」と語る松坂。その右腕の状態は、昨年7月に脊椎内視鏡頚椎手術に踏み切ったものの回復しなかった。
それでも、松坂はもがいた。そして、なんとか実戦登板まで行けるかと思われた矢先だった。今年4月にブルペンで起きた出来事が引退を決定付けた。
「もうそろそろ打撃投手をやって、ファームの試合にも投げられそうだなというところまで来たんですけど、その話をした矢先にブルペンの投球練習中に、何の前触れもなく右打者の頭の方にボールが抜けたんです。それも、普通に抜けたんじゃなく、とんでもない抜け方をした。
そういう時、ピッチャーって抜けてるなと思ったら指先の間隔で引っかけたりするんですけど、それができないぐらいの抜け方だった。そのたった1球で、ボールを投げるのが怖くなった。そんな経験は今までになかったので、自分の中でもショックがすごくあった」
その後もリハビリに努めたが、コロナ禍でトレーニングも治療もままならず、「症状が改善しなかった。これはもう投げるのは無理だと。やめなきゃいけないと思った」という松坂は、練習中のたった1球で、23年間のプロ野球人生に幕を下ろす決意をした。
19日に行なわれる引退試合も「ほんとは投げたくなかった」。しかし、「もうこれ以上、ダメな姿を見せたくないって思っていたんですけど、最後にユニホーム姿の松坂大輔の姿を見たいと言ってくれる方々がいた。最後の最後、全部さらけ出して見てもらおうと思いました」と周囲の声を意気に感じ、マウンドに立つ。
本人が「どうしようもない姿かもしれない」というのだから今も状態は芳しくないのだろう。しかし、それでも数々の伝説を残してきた栄光の背番号18の最後を目に焼き付けたいと思う。
取材・文●羽澄凜太郎(THE DIGEST編集部)
【PHOTO】マウンドで涙も…。“平成の怪物”松坂大輔のラストピッチングを厳選ショットで振り返る
記事初掲載:2021年10月19日
【動画】“感謝”の気持ちを込めた! 松坂大輔、全身全霊で投げたラスト5球をチェック
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「投げるのが怖くなった」
これは松坂大輔が、引退会見の場で漏らした言葉だ。彼の全盛期を目の当たりにしてきた筆者からすれば、ショッキングだった。
松坂が残してきた功績は申し分ない。3度の最多勝に、4度の最多奪三振に加えて、2001年には沢村賞にも輝いた。2006年から挑戦したアメリカでも通算56勝を挙げ、2007年にはボストン・レッドソックスのワールドシリーズ制覇に貢献した。
球史に語り継がれるであろう伝説的なシーンも残してきた。なかでも、プロデビューを飾った1999年の5月16日、当時オリックスに所属していたイチローとの初対決で、3打席連続三振に切って取ったピッチングは圧巻の一語。試合後のヒーローインタビューで残した「自信が確信に変わりました」という名台詞を覚えている人も少なくないはずだ。
多士済々のプロ野球界で、23年もプレーした事実が何よりも松坂の力を物語る。しかし、日本球界で数多の名シーンを創出してきた“エース”は、自身のキャリアを「半分以上は怪我との戦いだった」と振り返る。
「最初の10年があったからここまでやらせてもらえたと思っている。僕みたいな人はなかなかいないんじゃないですかね。一番良い思いと、自分で言うのもなんですけど、どん底も同じぐらい経験した選手はいないかもしれない」
2009年以降は「肩が痛くない投げ方、痛みが出ても投げられる投げ方をしていた」と語る松坂。その右腕の状態は、昨年7月に脊椎内視鏡頚椎手術に踏み切ったものの回復しなかった。
それでも、松坂はもがいた。そして、なんとか実戦登板まで行けるかと思われた矢先だった。今年4月にブルペンで起きた出来事が引退を決定付けた。
「もうそろそろ打撃投手をやって、ファームの試合にも投げられそうだなというところまで来たんですけど、その話をした矢先にブルペンの投球練習中に、何の前触れもなく右打者の頭の方にボールが抜けたんです。それも、普通に抜けたんじゃなく、とんでもない抜け方をした。
そういう時、ピッチャーって抜けてるなと思ったら指先の間隔で引っかけたりするんですけど、それができないぐらいの抜け方だった。そのたった1球で、ボールを投げるのが怖くなった。そんな経験は今までになかったので、自分の中でもショックがすごくあった」
その後もリハビリに努めたが、コロナ禍でトレーニングも治療もままならず、「症状が改善しなかった。これはもう投げるのは無理だと。やめなきゃいけないと思った」という松坂は、練習中のたった1球で、23年間のプロ野球人生に幕を下ろす決意をした。
19日に行なわれる引退試合も「ほんとは投げたくなかった」。しかし、「もうこれ以上、ダメな姿を見せたくないって思っていたんですけど、最後にユニホーム姿の松坂大輔の姿を見たいと言ってくれる方々がいた。最後の最後、全部さらけ出して見てもらおうと思いました」と周囲の声を意気に感じ、マウンドに立つ。
本人が「どうしようもない姿かもしれない」というのだから今も状態は芳しくないのだろう。しかし、それでも数々の伝説を残してきた栄光の背番号18の最後を目に焼き付けたいと思う。
取材・文●羽澄凜太郎(THE DIGEST編集部)
【PHOTO】マウンドで涙も…。“平成の怪物”松坂大輔のラストピッチングを厳選ショットで振り返る