そうなった時に、多くの高校球児が涙を呑むことになる。
日本高野連がさまざまな決定ごとをする際、必ず口にするのは「平等性」だ。
しかし、何を持って平等とするかは、高野連の中でも筋が通っておらず、その場しのぎの策を講じてきたことは否めない。
その最たる例が2020年から導入が始まった球数制限だ。
1週間500球の制限が実際に該当する学校は極めて少ないものの、本来の目的は複数投手制の推進にある。1週間500球では投球禁止になることはそう多くないが、「万が一」に備えて2、3番手投手を育成しておく必要がある。
しかし、トーナメント制ばかりが敷かれている現状は、2、3番手投手を起用する機会がない。負けると先がないから、エースを優先的に起用してしまう。結果、大会を勝ち上がることができる学校だけが複数の投手を試すことができる。
「球数制限を厳しくすれば、部員が多い私学が優位になる」
こうした意見は高校野球の現場内部から聞こえてくるが、それは、投手を育成する機会を作ってないからだ。高校球児にとって何が本当に大事なのかを精査すれば、簡単に答えが出てくるはずだ。
昨秋の都大会序盤で姿を消したチームは、この春のリベンジに向け、冬場に厳しい練習を積んできたことだろう。その成果を発揮する貴重な場が奪われることは、もともと試合数が少ないチームにとって大きな打撃だ。
都大会の優勝チームを決め、各都県の上位校が集まる大きな舞台が大事なのか、それとも、どのような学校にも試合機会を与えることが大事なのか――。
昨年、センバツに続いて夏の甲子園が中止になった時、各府県の高野連は「3年生のために」と独自大会の開催に踏み切った。あの時のことを考えれば、今どういう決断をすべきか、そう難しい問題ではないはずだが。
取材・文●氏原英明(ベースボールジャーナリスト)
【著者プロフィール】
うじはら・ひであき/1977年生まれ。日本のプロ・アマを取材するベースボールジャーナリスト。『スラッガー』をはじめ、数々のウェブ媒体などでも活躍を続ける。近著に『甲子園という病』(新潮社)、『メジャーをかなえた雄星ノート』(文藝春秋社)では監修を務めた。
日本高野連がさまざまな決定ごとをする際、必ず口にするのは「平等性」だ。
しかし、何を持って平等とするかは、高野連の中でも筋が通っておらず、その場しのぎの策を講じてきたことは否めない。
その最たる例が2020年から導入が始まった球数制限だ。
1週間500球の制限が実際に該当する学校は極めて少ないものの、本来の目的は複数投手制の推進にある。1週間500球では投球禁止になることはそう多くないが、「万が一」に備えて2、3番手投手を育成しておく必要がある。
しかし、トーナメント制ばかりが敷かれている現状は、2、3番手投手を起用する機会がない。負けると先がないから、エースを優先的に起用してしまう。結果、大会を勝ち上がることができる学校だけが複数の投手を試すことができる。
「球数制限を厳しくすれば、部員が多い私学が優位になる」
こうした意見は高校野球の現場内部から聞こえてくるが、それは、投手を育成する機会を作ってないからだ。高校球児にとって何が本当に大事なのかを精査すれば、簡単に答えが出てくるはずだ。
昨秋の都大会序盤で姿を消したチームは、この春のリベンジに向け、冬場に厳しい練習を積んできたことだろう。その成果を発揮する貴重な場が奪われることは、もともと試合数が少ないチームにとって大きな打撃だ。
都大会の優勝チームを決め、各都県の上位校が集まる大きな舞台が大事なのか、それとも、どのような学校にも試合機会を与えることが大事なのか――。
昨年、センバツに続いて夏の甲子園が中止になった時、各府県の高野連は「3年生のために」と独自大会の開催に踏み切った。あの時のことを考えれば、今どういう決断をすべきか、そう難しい問題ではないはずだが。
取材・文●氏原英明(ベースボールジャーナリスト)
【著者プロフィール】
うじはら・ひであき/1977年生まれ。日本のプロ・アマを取材するベースボールジャーナリスト。『スラッガー』をはじめ、数々のウェブ媒体などでも活躍を続ける。近著に『甲子園という病』(新潮社)、『メジャーをかなえた雄星ノート』(文藝春秋社)では監修を務めた。