母国開催の1990年イタリア・ワールドカップで大会MVP&得点王に輝き、1994年からは4シーズンにわたってジュビロ磐田でプレーした偉大なストライカー、サルバトーレ・スキラッチ(敬称略)が9月18日、59歳でこの世を去った。
2022年より結腸癌を患い、2度の手術を受けるなど、長く闘病していたことは現地メディアでも再三報じられていたが、今月に入って心房細動で故郷パレルモの病院に入院。そして18日朝に息を引き取ったことを、彼の家族が公表している。
彼の亡骸はシチリア島最大のクラブ、パレルモのホームスタジアム「レンツォ・バルベーラ」に設置された礼拝堂に運ばれ、訪れた多くのファンは「トト」の愛称で慕われた地元の英雄に最後の別れを告げたという。
1964年12月1日に5人兄弟の長男として大工の家に生まれたスキラッチは、10代の頃からタイヤの修理工として家計を助けるなど、苦労しながらも、イタリアがワールドカップ制覇の歓喜に包まれた1982年、メッシーナでプロデビューし、1983年にセリエC2、1986年にセリエC1でそれぞれリーグ優勝に貢献する。
抜群のスピードと敏捷性、そして得点嗅覚と決定力を武器に、あらゆる形でゴールを量産する彼は、同クラブでのラストシーズンとなった1989年にセリエB得点王に輝き、ユベントスに引き抜かれると、ミラノ勢隆盛のこの時期にコッパ・イタリア、UEFAカップのタイトルを手にしている。
1990年3月にアツェリオ・ヴィチーニ政権下の「アズーリ」でA代表に昇格して初キャップを刻むと、同年開催のW杯にも招集。ジャンルカ・ヴィアッリ、アンドレア・カルネバーレの控えという位置づけでありながらも、愛称通り「救世主」としての期待も高かった彼は、本大会では調子の上がらないレギュラー2人に代わり、ロベルト・バッジョとともに前線で躍動した。
初戦のオーストリア戦で交代出場からファーストタッチで決勝ヘッドを決めて最高のスタートを切ると、第3戦チェコスロバキア戦、ラウンド・オブ・16ウルグアイ戦、準々決勝アイルランド戦、準決勝アルゼンチン戦でゴールをゲット。優勝候補の最右翼だったチームは準決勝で初失点を喫し、PK戦の末に涙を飲んだが、スキラッチの勢いは3位決定戦でも持続され、PKで大会最多の6得点に達して得点王に。同時に、優勝した西ドイツの殊勲者ローター・マテウスらを抑え、大会MVPの勲章まで手にした。
一躍世界最高のストライカーの座に昇り詰め、同年のバロンドールで2位となったが、W杯後は怪我やコンディション不良で精彩を欠き、1992年にインテルに移籍。ここでも不調のまま2シーズンでリーグ30試合11得点に止まると、1994年に黎明期のJリーグに参戦して世界を驚かせ、昇格したばかりのジュビロ磐田で95年には31ゴールを挙げて浦和レッズの福田正博(32ゴール)と熾烈な得点王争いを展開し、1997年にはセカンドステージ優勝&チャンピオンシップを制して王者の一員となっている。
2022年より結腸癌を患い、2度の手術を受けるなど、長く闘病していたことは現地メディアでも再三報じられていたが、今月に入って心房細動で故郷パレルモの病院に入院。そして18日朝に息を引き取ったことを、彼の家族が公表している。
彼の亡骸はシチリア島最大のクラブ、パレルモのホームスタジアム「レンツォ・バルベーラ」に設置された礼拝堂に運ばれ、訪れた多くのファンは「トト」の愛称で慕われた地元の英雄に最後の別れを告げたという。
1964年12月1日に5人兄弟の長男として大工の家に生まれたスキラッチは、10代の頃からタイヤの修理工として家計を助けるなど、苦労しながらも、イタリアがワールドカップ制覇の歓喜に包まれた1982年、メッシーナでプロデビューし、1983年にセリエC2、1986年にセリエC1でそれぞれリーグ優勝に貢献する。
抜群のスピードと敏捷性、そして得点嗅覚と決定力を武器に、あらゆる形でゴールを量産する彼は、同クラブでのラストシーズンとなった1989年にセリエB得点王に輝き、ユベントスに引き抜かれると、ミラノ勢隆盛のこの時期にコッパ・イタリア、UEFAカップのタイトルを手にしている。
1990年3月にアツェリオ・ヴィチーニ政権下の「アズーリ」でA代表に昇格して初キャップを刻むと、同年開催のW杯にも招集。ジャンルカ・ヴィアッリ、アンドレア・カルネバーレの控えという位置づけでありながらも、愛称通り「救世主」としての期待も高かった彼は、本大会では調子の上がらないレギュラー2人に代わり、ロベルト・バッジョとともに前線で躍動した。
初戦のオーストリア戦で交代出場からファーストタッチで決勝ヘッドを決めて最高のスタートを切ると、第3戦チェコスロバキア戦、ラウンド・オブ・16ウルグアイ戦、準々決勝アイルランド戦、準決勝アルゼンチン戦でゴールをゲット。優勝候補の最右翼だったチームは準決勝で初失点を喫し、PK戦の末に涙を飲んだが、スキラッチの勢いは3位決定戦でも持続され、PKで大会最多の6得点に達して得点王に。同時に、優勝した西ドイツの殊勲者ローター・マテウスらを抑え、大会MVPの勲章まで手にした。
一躍世界最高のストライカーの座に昇り詰め、同年のバロンドールで2位となったが、W杯後は怪我やコンディション不良で精彩を欠き、1992年にインテルに移籍。ここでも不調のまま2シーズンでリーグ30試合11得点に止まると、1994年に黎明期のJリーグに参戦して世界を驚かせ、昇格したばかりのジュビロ磐田で95年には31ゴールを挙げて浦和レッズの福田正博(32ゴール)と熾烈な得点王争いを展開し、1997年にはセカンドステージ優勝&チャンピオンシップを制して王者の一員となっている。
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