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国内テニス

あの金髪ロン毛の太った人は誰? テニス芸人“ボヨン・ボルグ”が誕生するまで【前編】

内田暁

2020.12.02

バモス!は最新の“加藤ネタ”を取り入れた軽妙なトークで参加者を楽しませた。写真:内田暁

バモス!は最新の“加藤ネタ”を取り入れた軽妙なトークで参加者を楽しませた。写真:内田暁

「テニス雑誌を全部買って、レッスンページを切り取ってホッチキスで止め、バインダーに入れて学校にも持っていってました」

 そんな彼のアイドルは、鈴木貴男とティム・ヘンマン。
「バレーボールをやっていたので、サーブだけはうまかった。なのでサーブ&ボレーヤーが僕の憧れでした」

 寝ても冷めてもテニスのことを考えるような日々を経て、腕は急激に磨かれる。2年生時には延岡市の一般大会で、ダブルス優勝するまでになっていた。

 ところが、それほどまでに青春を捧げたテニスに、彼は高校卒業と同時に別れを告げる。子どもの頃から抱いたもう1つの夢……「お笑い芸人」を追うためだった。持っていたラケットも全て後輩に渡して郷里を離れ、1年間のバイト生活でお金を貯める。そして貯金を手に上京すると、吉本興業の養成所に入学した。19歳の時である。

 夢を携え始めた、東京での芸人暮らし。だが待っていたのは、夢への距離が縮まらぬ日々だった。

 養成学校を卒業すれば、よしもとクリエイティブ・エージェンシーの所属芸人にはなれる。ただそこからは、ピラミッド型のヒエラルキーに組み込まれ、ライブで笑いを取って上を目指す、実力主義の勝負の世界だ。
 
 固定給はなく、バイトで日銭を稼ぎながら地方のコンテストに出るも、「上位1割には入れても、優勝はできない時期が3~4年続いた」。その間に、養成所で同じ釜の飯を食べた同期からは、スポットライトを浴びる者たちも出ていく。

「僕らの代は“華の15期”と呼ばれていて、おかずクラブ、鬼越トマホーク、横澤夏子さんらが出た当たり年。その一方で、1000人いた東京養成所の同期の中で、今年11年目を迎えて残っているのは20人ちょっと。売れていく同期を見ながら、みんなバンバン辞めていったんです」

 渡邉が「こいつとダメだったら諦めよう」と見込んだ相方も、同期が浴びるスポットライトの陰で、芸人生活に幕を引いた1人だった。

 コンビ解消が決まったその日、2人で訪れたカフェで、辞めゆく相方が渡邉に言った。
「そんなにテニスが好きなら、テニス使った芸やったらいいんじゃない?」。

 その時、自身も辞める気でいた彼の胸に、最後の灯火が点る。
「確かに、テニス芸人を名乗っている人はあまりいないな。最後の悪あがきをやって、それでダメだったら本当に辞めよう」

 芸人生活8年目の、晩冬の日だった。(~後編に続く)

取材・文●内田暁

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