――チアダンスと衝撃的な出合いをしてから約1年後に豊田さんは大舞台に立ちました。
はい。2年になる直前のALL JAPAN CHAMPIONSHIP JAL CUPに出してもらえることになりました。それが最初の大会でした。それ以外にも出場した大会はありましたし、2年の時の全日本学生選手権は優勝もしたんですけど、やっぱり一番覚えているのはこの時なんです。裏で待っている間、いろんな思いがこみあげて怖くなって、すごい泣きましたね。
でも本番になると体が動いて演技ができた。「自分もできるんだ」と思いました。少し前まで練習を見ていただけの自分が、入部して、生活も習慣も変わって、気持ちも大きく変化した。本当にガムシャラでした。その後どうなるとか全く考えなかったけど、あの時があったから、その後の続きもあって、今につながる。本当に大きな意味のある初舞台でした。
――2年の全日本学生選手権優勝時にはどんなことを感じましたか?
自分は先輩たちや引っ張ってくれる人にどうついていくかで必死だったんですけど、達成感はメチャクチャ大きかったですね。特にチームで作り上げていく中の1コマになれたという思いはありました。チアダンスは誰1人欠けても全体の演技が成り立たないので、1人1人が異なる役割や課題をしっかりとこなして、パズルのピースのようにならないといけない。その結果として1つの作品になるんです。
だから、踊った瞬間よりは、終わった後に余韻を感じたというのかな。「どうかな、大丈夫かな、ちゃんとできたかな」と不安を感じながら演技をして、後から見直した時に1つの完成形に見えるという感じで、後からジワジワ来るんだなと。点数だけでは見えてこないところがありました。
――1つの頂点に立ったわけですが、その後のダンスを極めていこうと考えたんですか?
大学を卒業した後は普通に就職しました。自分が学んでいた情操教育と踊りが直結しなかったし、やりたい仕事のイメージがあまり湧かなかったので、劇団ひまわりの事務スタッフになったんです。最初の1年間はそこで普通に作業をする日々を過ごしていました。
劇団ひまわりには沢山の俳優の卵たちがいて、ダンスレッスンもあるんです。そのインストラクターがお休みした時に「代講をやってほしい」と言われて引き受けたことをきっかけに、また少しずつダンスをする機会が増えてきました。「正直、ダンスはもういいかな」と思って就職したのに、またそういうチャンスが巡ってきたことで、「自分はダンスとの縁がまだあるんだ」と思えて、それからは指導がどんどん楽しくなっていきましたね。
――そこからダンスのインストラクターの道を歩んでいくんですね。
そうですね。劇団ひまわりをやめてもインストラクターの枠として雇っていただけるという話になり、会社を退職してそちらに専念するようになりました。そこでいくつか仕事をしているうちに、「戦隊ヒーローものの振付師を探しているんだけど、やってみないか」と声をかけていただき、それをやるようになりました。さらには「日テレ読売文化センターで教えませんか」と大学の先輩から紹介され、やるようになりました。それを機に未就学児を3か所くらいで教えるようになったんですが、その子たちがどんどんうまくなっていった。年齢制限が出てくるんで、幼稚園を卒業して小学生になってからは全日本チアダンス選手権ジュニア部門にも出られるクラスを作った。2008年には2位にもなりました。4歳で出会った最初の子たちは中学3年生まで教えることになりましたね。
――劇団ひまわりに入った頃は想像もしなかった未来が開けたんですね。
はい。直後に結婚し、すぐに出産したことで、ダンス指導からは少し遠ざかりました。教えたい気持ちはもちろんあったんですが、子育てをしながらでは本気の世界に対して責任が持てないというか、「子供がいるからごめんね」と中途半端になってしまうのが嫌だった。そこで一区切りをつけたんです。教え子たちは中学の後、ダンス強豪校に進んだり、大学で世界大会に出たり、ニューヨークに留学したりと、それぞれに活躍してくれました。それを私は普通のお母さんとして遠くから見守る形でしたね。
はい。2年になる直前のALL JAPAN CHAMPIONSHIP JAL CUPに出してもらえることになりました。それが最初の大会でした。それ以外にも出場した大会はありましたし、2年の時の全日本学生選手権は優勝もしたんですけど、やっぱり一番覚えているのはこの時なんです。裏で待っている間、いろんな思いがこみあげて怖くなって、すごい泣きましたね。
でも本番になると体が動いて演技ができた。「自分もできるんだ」と思いました。少し前まで練習を見ていただけの自分が、入部して、生活も習慣も変わって、気持ちも大きく変化した。本当にガムシャラでした。その後どうなるとか全く考えなかったけど、あの時があったから、その後の続きもあって、今につながる。本当に大きな意味のある初舞台でした。
――2年の全日本学生選手権優勝時にはどんなことを感じましたか?
自分は先輩たちや引っ張ってくれる人にどうついていくかで必死だったんですけど、達成感はメチャクチャ大きかったですね。特にチームで作り上げていく中の1コマになれたという思いはありました。チアダンスは誰1人欠けても全体の演技が成り立たないので、1人1人が異なる役割や課題をしっかりとこなして、パズルのピースのようにならないといけない。その結果として1つの作品になるんです。
だから、踊った瞬間よりは、終わった後に余韻を感じたというのかな。「どうかな、大丈夫かな、ちゃんとできたかな」と不安を感じながら演技をして、後から見直した時に1つの完成形に見えるという感じで、後からジワジワ来るんだなと。点数だけでは見えてこないところがありました。
――1つの頂点に立ったわけですが、その後のダンスを極めていこうと考えたんですか?
大学を卒業した後は普通に就職しました。自分が学んでいた情操教育と踊りが直結しなかったし、やりたい仕事のイメージがあまり湧かなかったので、劇団ひまわりの事務スタッフになったんです。最初の1年間はそこで普通に作業をする日々を過ごしていました。
劇団ひまわりには沢山の俳優の卵たちがいて、ダンスレッスンもあるんです。そのインストラクターがお休みした時に「代講をやってほしい」と言われて引き受けたことをきっかけに、また少しずつダンスをする機会が増えてきました。「正直、ダンスはもういいかな」と思って就職したのに、またそういうチャンスが巡ってきたことで、「自分はダンスとの縁がまだあるんだ」と思えて、それからは指導がどんどん楽しくなっていきましたね。
――そこからダンスのインストラクターの道を歩んでいくんですね。
そうですね。劇団ひまわりをやめてもインストラクターの枠として雇っていただけるという話になり、会社を退職してそちらに専念するようになりました。そこでいくつか仕事をしているうちに、「戦隊ヒーローものの振付師を探しているんだけど、やってみないか」と声をかけていただき、それをやるようになりました。さらには「日テレ読売文化センターで教えませんか」と大学の先輩から紹介され、やるようになりました。それを機に未就学児を3か所くらいで教えるようになったんですが、その子たちがどんどんうまくなっていった。年齢制限が出てくるんで、幼稚園を卒業して小学生になってからは全日本チアダンス選手権ジュニア部門にも出られるクラスを作った。2008年には2位にもなりました。4歳で出会った最初の子たちは中学3年生まで教えることになりましたね。
――劇団ひまわりに入った頃は想像もしなかった未来が開けたんですね。
はい。直後に結婚し、すぐに出産したことで、ダンス指導からは少し遠ざかりました。教えたい気持ちはもちろんあったんですが、子育てをしながらでは本気の世界に対して責任が持てないというか、「子供がいるからごめんね」と中途半端になってしまうのが嫌だった。そこで一区切りをつけたんです。教え子たちは中学の後、ダンス強豪校に進んだり、大学で世界大会に出たり、ニューヨークに留学したりと、それぞれに活躍してくれました。それを私は普通のお母さんとして遠くから見守る形でしたね。