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プロ野球

追悼・関根潤三――投手、打者、そして指導者としても優れた業績を残した偉大な"三刀流"

2020.04.10

"二刀流"としての関根氏は堅実さが持ち味。投手としては通算与四球率2.41と制球に優れ、打者としても三振率わずか1.7%と、ほとんど三振をしていない。「じっとボールを見てスウィングする、僕とは正反対の『静』の打者」と王貞治氏は語る。写真:朝日新聞社

 野球解説者の関根潤三氏が9日、老衰のため都内の病院で亡くなった。93歳だった。

 解説者時代の穏やかな語り口で好々爺のイメージが強い関根氏だが、実は若い頃は無頼派で、指導者としてもかなりの熱血派だった。現役時代は二刀流としても鳴らすなど、いろいろな意味でスケールの大きな人物だった。

 法政大のエースとして、六大学史上5位の通算41勝を挙げた関根氏は、1950年に近鉄へ入団。1年目から規定投球回をクリアした一方で、打率.248、4本塁打を記録するなど打者としても才能を発揮した。プロ4年目の53年には自身初の2ケタ勝利(10勝)に到達し、オールスターにも初出場。この年は規定打席未満とはいえ打率.318を記録するなど、まさに"二刀流"の活躍だった。

 しかし、プロ入り当初から肩に爆弾を抱えていたこともあり、年々球威が低下。苦悩の末、57年の開幕直後に外野手転向を決断する。するとこの年は主に3番を打ってチームトップタイの122安打を放ち、同2位の打率.284を記録するなど、改めて打撃の才能を存分に発揮したのだった。
 
 以降9年間で打率トップ10入りは5回。外野手としてオールスターにも4度選ばれている。ちなみに投手としても野手としてもオールスターに選ばれたのは、関根氏と大谷翔平(現ロサンゼルス・エンジェルス)のみだ。63年には通算1000本安打にも到達。通算50勝と1000本安打を両方とも達成したのは、2リーグ制以降では唯一の記録である。

 温和な顔つきからは想像もできないような、豪放磊落な人物でもあった。大学4年の頃は近鉄から得た契約金で、毎晩のように銀座へ繰り出して飲み歩いたという。本人曰く、「ケンカも結構した」そうで、近鉄でバッテリーを組み、のちに球界の寝業師として知られた故・根本陸夫氏は関根氏のことを「彼は"インテリヤクザ"。絶対に怒らせてはいけない男」と語っていたほどだ。

 引退後は広島と巨人でコーチを務め、大洋(現・DeNA)やヤクルトで監督を歴任。この頃になると「好々爺」のイメージが定着し始めたが、それでも根っこのところは”インテリヤクザ”。鬼コーチ、鬼監督になることも時々あった。

 広島のヘッドコーチ時代は門限破りをした故・衣笠祥雄氏が寮に帰ってきたところを捕まえ、深夜2時からパンツ一丁で延々と素振りをさせたという。また、ヤクルトの監督時代には、打ち込まれた投手に降板を告げる際、笑顔で「ご苦労さん」と言いながら、スパイクで足を踏みつけられたと証言する投手もいる。

 だが、そうした厳しくも愛のある指導が、多くの選手の才能を開花させてきたのもまた事実だ。衣笠氏はのちに通算2543安打の大打者に成長し、ヤクルトは関根氏が辛抱して育成した広澤克実、池山隆寛らが、後を引き継いだ故・野村克也監督の下で開花した。

 打者と投手の両方を育てることができたのも、現役時代に"二刀流"だった関根氏ならではだろう。彼は投手、野手、そして指導者としての手腕にも優れた"三刀流"だった。また、プロ野球ニュースにも長く出演するなど、解説者としても親しまれた存在だった。選手として名球会入りしたり、監督としてリーグ優勝を果たしたりしたわけではないが、関根氏が野球界に果たした有形無形の貢献は計り知れない。

文●筒居一孝(スラッガー編集部)
 

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