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プロ野球

特攻で空に散った石丸進一、波間に消えた沢村栄治...戦争で命を落とした野球選手たち

筒居一孝(SLUGGER編集部)

2020.08.15

生前の沢村は、剛速球と落差の大きいドロップで球界最高の投手として活躍。35年のアメリカ遠征の際は、メジャーからもスカウトされたという。写真:産経新聞社

生前の沢村は、剛速球と落差の大きいドロップで球界最高の投手として活躍。35年のアメリカ遠征の際は、メジャーからもスカウトされたという。写真:産経新聞社

 本日、8月15日は終戦の日。1945年の同じ日、太平洋戦争が終結するまで300万人以上の日本人が亡くなった。その中には多くの野球選手も含まれている。現在までに戦死したことが確認されている選手は73人。彼らの名前は、東京ドーム敷地内にある『鎮魂の碑』に刻まれている。

 鎮魂の碑に刻まれた中で最も有名な名前は、沢村栄治(元巨人)と景浦将(元阪神)の2人だろう。沢村は巨人軍創設メンバーの一人で、剛速球と落差のあるドロップを武器に、34年の日米野球ではあのベーブ・ルース(当時ヤンキース)からも三振を奪ったこともある大エース。沢村賞の由来となった人物でもある。

 一方の景浦は、豪快なスウィングで観客を魅了した阪神の初代4番打者。首位打者1回、打点王1回に加えて、最優秀防御率を1回獲得するなど投手としても活躍した。ともに創成期のプロ野球を代表するスーパ-スターであり、2人の対決が巨人対阪神戦を球界最高の人気カードまで押し上げたと言っても過言ではない。

 だが、沢村は38年に徴兵されて中国へ赴いた。この時は生還したが、戦場で手りゅう弾を投げたことにより肩を痛めて剛速球を投げられなくなり、43年シーズン終了後に巨人から解雇。そして44年に再び戦場へと送られ、同年12月2日、フィリピンへ向かうために乗船していた輸送船が台湾沖で米軍の潜水艦に撃沈され、波間に消えた。この時、27歳だった。
 
 一方、景浦も44年に2度目の出征。フィリピン防衛戦に加わったが、ルソン島で連合軍に包囲されてしまう。現地の日本軍は食糧が欠乏し、さらにマラリアが蔓延。かつて、大食い対決で相撲取りにも勝ったと言われる景浦も、ガリガリに痩せてしまった。45年5月20日、景浦はジャングルの中で食糧調達に出かけたきり行方不明となった。享年29歳。戦後、実家に届いた骨壺の中には、石ころが3つ入っているだけだったという。球界屈指の豪傑の最期にしては、あまりにも物悲しい。

 沢村や景浦の他にも、巨人や阪神はスターを戦争で多く失った。沢村と巨人でバッテリーを組んでいた強肩強打の名捕手・吉原正喜は、44年10月10日にビルマ戦線で玉砕。25歳だった。同じく巨人で1番打者を務めていた二塁手の田部武雄は沖縄防衛戦に動員され、45年6月に戦死(享年39歳)。阪神のエースで、酒豪だったことから“酒仙投手”の異名を取った西村幸生は、元チームメイトの景浦と同じように、フィリピン防衛に動員されて亡くなった(享年34歳)。また、黒鷲軍のスター一塁手で、地面に着くほど足を大きく広げて送球をキャッチしたことから“タコ足”と呼ばれた中河美芳が、やはりフィリピンで戦死している(享年24歳)。
 

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