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プロ野球

3割打者は4人いても、今季以上の“投高打低”!史上初の「打率2割台の首位打者」誕生が期待(?)された1976年の思い出<SLUGGER>

豊浦彰太郞

2022.07.25

ロッテ佐々木朗希の完全試合をはじめ、今季はパのチーム相手にノーヒッターが4度。驚異の投高打低だが、これを上回るシーズンが過去にもあった? 写真:産経新聞社

ロッテ佐々木朗希の完全試合をはじめ、今季はパのチーム相手にノーヒッターが4度。驚異の投高打低だが、これを上回るシーズンが過去にもあった? 写真:産経新聞社

 今季のプロ野球では、すでにノーヒッターが4度も達成される「投高打低」のシーズンとなっている。ソフトバンクの千賀滉大が「将来3割打者はいなくなる」と発言したことも話題になった。実際、特にパ・リーグは前半戦終了時点で、規定打席以上で打率3割に達しているのは2人しかいない(セ・リーグは7人)。

 2リーグ制となった1950年以降、3割打者がリーグで2人以下は過去に9度ある。1人だけだった年は4度だ。

 しかし、そうした投高打低のシーズンでも、首位打者を獲得した選手の打率は62年の森永勝也(広島)の.307を除き、すべて.320以上だった。森永のケースはセで3割以上は彼1人だったのだが、当時どの程度ファンや関係者が「消滅の危機」と騒いだかは、その翌年生まれたぼくには実感できる情報がない。そこで、リアルタイムで見てきた中でもっとも「危機」だったと認識している、76年のパについて記したい。

 この年、最終的にはパの3割打者は4人だった。しかし、シーズン終盤になって3割打者がゼロになる日も発生したと記憶している。相当危ない状況だった。その理由としては、もちろん好投手があふれていたことが挙げられる。

 日本シリーズ3連覇という黄金時代の真っただ中の阪急(現オリックス)には、“史上最高のアンダースロー”とうたわれた山田久志がいた。69年以降では現在も最多となる26勝(7敗)と圧倒的な成績だった(もっとも、当時のパ・リーグは今と違って不人気で、本拠地・西宮球場はいつもガラガラだった)。
 
 さらにロッテの村田兆治も凄かった。21勝11敗、防御率は1.82で両リーグトップ。さらには南海(現ソフトバンク)の山内新一(20勝)、近鉄の鈴木啓示(18勝)、日本ハムの高橋直樹(17勝)など各球団のエースがその名に恥じない成績を残した。太平洋(現西武)のエース東尾修はこの年不調で、勝ち星こそ13に終わったが、前年は23勝で最多勝を獲得と、本来の実力は折り紙付きだった。

 このように、パ・リーグ全球団に大エースがひしめいていただけでなく、現代とは異なり、彼らの多くは中4日で先発。時にはリリーフもこなすという大車輪ぶりで、打者にとっては受難と言うしかない状況だった。

 そんな状況下で、最終的に首位打者のタイトルをさらったのは太平洋の伏兵、吉岡悟だった。彼はその球歴を通じ、レギュラーとして活躍したのは僅か2年だけ。前年はわずか69試合の出場で打率.219だったのが、この年は4月下旬からレギュラーに定着して狂い咲きを見せたのだ。リーグ全体が投高打低の中、水面下で着々と安打を積み重ね、8月中旬になって規定打席に到達。首位打者が視野に入るリーグ2位に付けた(それでも打率は3割に届いていなかったが)。

 そして9月中旬、それまでただ1人の3割打者だった南海の門田博光(パワーヒッターのイメージが強いが、当時はどちらかと言えばアベレージヒッターだった)を抜いてついに首位打者に躍り出た。その後も門田や藤原満(南海)、加藤秀司(阪急)らと厘差、毛差の激烈な首位打者争いを展開したが、打率が3割そこそこだっただけに、同時に低レベルな感が否めなかったのも確か。「2リーグ分裂後では初の打率2割台の首位打者が誕生!?」との危機感と期待感(?)が、(当時極めて少なかった)パ・リーグファンの間で高まった。
 
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