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NBA

練習要員から大人気選手へと上り詰めたジョン・スタークス。そのきっかけはひとつの“故障”だった【NBA名脇役列伝・前編】

出野哲也

2020.03.03

大学を4校渡り歩き、NBA入り後も1年で解雇。マイナーリーグも経験するなど、スタークスのキャリアは苦労の連続だった。(C)Getty Images

大学を4校渡り歩き、NBA入り後も1年で解雇。マイナーリーグも経験するなど、スタークスのキャリアは苦労の連続だった。(C)Getty Images

 ニューヨーク・ニックスの歴史において最高の選手10人を選ぶとしたら、そこにジョン・スタークスが入る余地はない。10人どころか、20人に入るかどうかさえ怪しいだろう。

 だが、人気面においては10位以内、ひょっとしたらトップ5に入るかもしれない。熱狂的なニックスファンである映画監督のスパイク・リーも「私のお気に入りの選手の一人」として名前を挙げているように、スタークスはニューヨーク市民から絶大な支持を得ていたのである。

 スタークスが人気を集めた理由のひとつは、彼がエリートではなく叩き上げだったからだ。3歳の時に父親が家を出てしまったため、一家は家賃を払えず何度も引っ越しを繰り返した。3つしか部屋のない家に、8人家族が別の一家と共同生活したこともあるという。そのためスタークスも高校時代、新聞販売店で積み込み作業をして家計を助けていた。

 そんな彼にとっての一番の楽しみは、プレイグラウンドでバスケットボールに興じることだった。高校時代は無名の存在だったが、彼自身は自分の実力を疑っていなかった。強豪大学に進んだ選手たちとも、ストリートでは対等に渡り合えていたからだ。
 
 だが勉学とはまったく縁がなかった上、学校のチームも辞めてしまったスタークスに、有力大学から誘いが来るはずもなかった。素行面の問題もあり、最初に入学したロジャース州大では窃盗事件を起こし早々に退学。次のノーザンオクラホマ大では、寮の部屋で大麻を吸って追放されている。

 タルサ短大を経て、4校目となるオクラホマ州大で平均15.4点、4.6アシストとチームを牽引。この活躍が当時ゴールデンステイト・ウォリアーズのヘッドコーチ(HC)だったドン・ネルソンの目に留まり、1988年にドラフト外で契約を勝ち取りNBA入りを果たした。

 しかし、プロで通用するだけの実力はまだなく、シーズン終了後にあっけなく解雇。その後はCBAのシダーラピッズ・シルバーブレッツ、WBLのメンフィス・ロケッツといったマイナーリーグの球団を転々とした。

 CBA時代にはレフェリーを突き飛ばして出場停止になり、そのため10日間契約を検討していたデトロイト・ピストンズも手を引いてしまう。ここまでの経歴は、将来オールスターに選ばれる選手のそれとはとても思えないだろう。
 
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