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NBA

有能な名脇役から稀代の名将へ――スティーブ・カーが歩む勝者の道【NBA名脇役列伝・前編】

出野哲也

2020.02.07

現役時代は決してスター選手ではなかったが、ブルズとスパーズで5度の優勝に貢献。コーチとしてもウォリアーズを3度の頂点に導いている。(C)Getty Images

現役時代は決してスター選手ではなかったが、ブルズとスパーズで5度の優勝に貢献。コーチとしてもウォリアーズを3度の頂点に導いている。(C)Getty Images

 ゴールデンステイト・ウォリアーズのヘッドコーチとして、3度の優勝を果たした名将スティーブ・カー。現役時代の彼は3ポイントシュートの名手として知られ、キャリア通算成功率45.4%は今なお史上1位。シーズン単位でも90年と95年の2度にわたりリーグ1位になっている。

 だが、彼の最も有名なシュートは3ポイントではなかった。1997年のNBAファイナル第6戦、シカゴ・ブルズの優勝を決定づけた1本は、3ポイントラインの内側から放ったもの。それでもカー=3ポイントシューターというイメージがあまりに強いため、もしかすると、このシュートも3ポイントだったと記憶している人もいるのではないだろうか。

 カーが生まれたのはアメリカ国内ではなく、中東のレバノンだった。1965年生まれで、奇しくもレバノン人唯一のNBA選手であったロニー・サイカリーと同い年。祖父はベイルート・アメリカン大学(AUB)の教授で、父親マルコムもベイルートで育ち、やがて中東研究の権威として知られるようになり、82年にAUBの学長に就任した。
 
 カーの兄弟たちもみな学問の道に進んだ。長女スーザンはハーバード大で教育学を、長男ジョンはスタンフォード大で経済学を学び、それぞれ博士号を取得した。

 次男であるスティーブも子どもの頃から聡明だったが、彼は学問よりも、幼い頃から父や兄弟たちと楽しんでいたバスケットボールに魅力を感じていたという。身体能力には恵まれていなかったが、ガッツと練習熱心さは人一倍。13歳の頃には、5歳年上の兄が相手でも、1オン1で互角以上に渡り合うなど頭角を現わしていった。

 高校時代にアメリカへ移住。卒業時に有力大学からのオファーはなかったものの、父が自らアリゾナ大のHC、ルート・オルソンにコンタクトをとり、入学することができた。

 その父がテロリストの銃弾に倒れたのは、カーが大学1年の時だった。1984年1月18日、大学内で後方から頭部を狙撃されたのである。

「その時、初めて理解できた。死というものがどれほどの痛みをもたらすか、どんなに多くの人がそうした経験をしているのかをね。暴力だろうが、癌だろうが、交通事故だろうが、心の痛みはどれも同じなんだ」。彼がドナルド・トランプ政権に極めて批判的であるのも、対立や憎悪がもたらすのは悲劇でしかないことを、個人的に体験しているからなのだろう。
 
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