プロ野球

「君に19をつけてもらいたい」甲斐拓也に禅譲した背番号。2人の共通点からその思いを探る【野村克也氏追悼企画】

2019.02.13

ソフトバンクの日本シリーズ3連覇を捕手として支えた甲斐。常勝軍団ホークスにとって、なくてはならない存在だ。 写真:山崎賢人(THE DIGEST写真部)

 2月11日、野村克也氏の訃報は、野球界のみならずスポーツ界全体を悲しみに包んだ。奇しくも昨年11月、野村氏の南海ホークス時代の背番号「19」を、ソフトバンクホークスの甲斐拓也が受け継いでいる。なぜ甲斐だったのか…。そこにある共通点とは?

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 11月28日、甲斐拓也(ソフトバンク)の背番号が来季から19に変更されることが発表された。背番号19の"前任者"には、あの野村克也がいる。1977年の退団以来、捕手では誰も着けていなかった番号を、ついにホークスが誇る名捕手が継承することとなる。

"禅譲"の伏線は2年前の2017年。甲斐と野村が初めて会った時のことだという。「次は君に19をつけてもらいたい」と、野村は甲斐に言った。
確かにこの年、甲斐はプロ7年目にしてブレイク。レギュラーに定着して103試合に出場し、ベストナインとゴールデングラブにも選ばれた。

 往年の名選手が"自分の背番号"を、まだブレイクしたての若手に託そうとしている。ホークスが誇るスーパーキャッチャー・城島健司にすら、野村はそのような言葉はかけなかったのに。きっと甲斐には、野村にそこまで言わせるだけの何かがあったのだろう。
 
 その一つはおそらく、甲斐の境遇が野村にそっくりなことではないだろうか。
 甲斐の両親は、甲斐が2歳の時に離婚。母・小百合さんの女手一つで育てられた。複数の仕事を掛け持ちしながら自分に野球をさせてくれた母に、甲斐は「母ちゃんのことを思えば頑張れた」と深く感謝している。

 一方の野村も3歳の時に父が亡くなり、母の手で育てられた。貧乏の中で一生懸命自分を育ててくれた母のために、プロ野球選手として成功したい。それがモチベーションとなってあれだけの大選手になった。

 甲斐と野村の共通点はそれにとどまらない。甲斐は10年のドラフトで、大分の楊志館高校からソフトバンクに入団したが、その時の順位は「育成6位」だった。その年ホークスに指名された中ではドン尻だった。入団当初の背番号は「130」。やっと支配下選手に登録されたのも、3年目の13年オフのことだった。

 実績からすれば意外だが、野村も1954年に南海ホークスへ入団した時はテスト生だった。しかも選手としてではなく、"カベ"——いわゆる「ブルペンキャッチャー」としての採用で、当然契約金はゼロ。そのためか、1年目のオフにはいきなりクビになりかけている。その時は「クビにされたら南海電車に飛び込んで自殺します」とすら言ってなんとか残留させてもらったほどだ。

 2人ともあまり期待された選手ではなかった。プロ入りしてからも苦労の連続。だが、そこから這い上がって球界トップクラスの選手にまで上り詰めた。