1925年6月1日から39年4月30日までの約15年間、ニューヨーク・ヤンキースの強打者ルー・ゲーリッグは2130試合もの間、一度も欠場することなくゲームに出続けていた。だが、何週間も続く体調不良と打撃不振から、5月2日のデトロイト・タイガース戦を休んで以降は、再びラインナップに名前が載ることはなかった。体調不良の原因が明らかになったのは6月20日。難病の筋萎縮性側索硬化症(ALS)に罹っていて、野球を続けるのは不可能と医師の診断が下ったのだ。
2週間後の7月4日、ヤンキー・スタジアムで開かれた"ルー・ゲーリッグ・デー"には、スーパースターとの別れを惜しむ6万1808人のファンが集結した。長年にわたって彼と3・4番を組んでいたベーブ・ルースら、多数のヤンキースOBも駆けつけた。ワシントン・セネタースとのダブルヘッダー第1試合の終了後、引退セレモニーは執り行われた。
「ファンの皆さんはこの2週間、どれほど私が不運であったかを伝える記事を目にされたかと思います」。スピーチを始めたゲーリッグは、続けて有名な次の言葉を口にした。「それでも私は、この地上で最も幸運な人間なのです。17年もの間、野球場で皆さんからかけていただいた言葉はどれも厚意に満ち、勇気づけられるものだったのですから」。ジェイコブ・ルパート・オーナー、エド・バーロウ球団社長、ミラー・ハギンス、ジョー・マッカーシー両監督の名前を列挙し、彼らとの知己を得た「私は幸運だ」と、自分に言い聞かせているかのように繰り返した。家族や両親、愛妻エレノアへの感謝を述べ、最後はこのように締めくくった。「不運ではあったのかもしれませんが、私の人生は本当に幸福でした」
MLB、いやアメリカ史に残る名スピーチが生まれた瞬間だった。
その後、ゲーリッグはニューヨーク市の仮釈放委員会で働き、この年開館したばかりの野球殿堂にも特例としてすぐ迎えられた。メジャーで最もタフな"アイアン・ホース"は、2年後の6月2日に37歳で死去。ALSは現在では「ゲーリッグ病」の別名で知られている。
文●出野哲也
【著者プロフィール】
いでの・てつや。1970年生まれ。『スラッガー』で「ダークサイドMLB――"裏歴史の主人公たち"」を連載中。NBA専門誌『ダンクシュート』にも寄稿。著書に『プロ野球 埋もれたMVPを発掘する本』『メジャー・リーグ球団史』(いずれも言視舎)。
【PHOTO】艶やかに球場を彩るMLBの「美女チアリーダーズ」!
2週間後の7月4日、ヤンキー・スタジアムで開かれた"ルー・ゲーリッグ・デー"には、スーパースターとの別れを惜しむ6万1808人のファンが集結した。長年にわたって彼と3・4番を組んでいたベーブ・ルースら、多数のヤンキースOBも駆けつけた。ワシントン・セネタースとのダブルヘッダー第1試合の終了後、引退セレモニーは執り行われた。
「ファンの皆さんはこの2週間、どれほど私が不運であったかを伝える記事を目にされたかと思います」。スピーチを始めたゲーリッグは、続けて有名な次の言葉を口にした。「それでも私は、この地上で最も幸運な人間なのです。17年もの間、野球場で皆さんからかけていただいた言葉はどれも厚意に満ち、勇気づけられるものだったのですから」。ジェイコブ・ルパート・オーナー、エド・バーロウ球団社長、ミラー・ハギンス、ジョー・マッカーシー両監督の名前を列挙し、彼らとの知己を得た「私は幸運だ」と、自分に言い聞かせているかのように繰り返した。家族や両親、愛妻エレノアへの感謝を述べ、最後はこのように締めくくった。「不運ではあったのかもしれませんが、私の人生は本当に幸福でした」
MLB、いやアメリカ史に残る名スピーチが生まれた瞬間だった。
その後、ゲーリッグはニューヨーク市の仮釈放委員会で働き、この年開館したばかりの野球殿堂にも特例としてすぐ迎えられた。メジャーで最もタフな"アイアン・ホース"は、2年後の6月2日に37歳で死去。ALSは現在では「ゲーリッグ病」の別名で知られている。
文●出野哲也
【著者プロフィール】
いでの・てつや。1970年生まれ。『スラッガー』で「ダークサイドMLB――"裏歴史の主人公たち"」を連載中。NBA専門誌『ダンクシュート』にも寄稿。著書に『プロ野球 埋もれたMVPを発掘する本』『メジャー・リーグ球団史』(いずれも言視舎)。
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