プロ野球

吉田正尚はいかにして”最高打者”になったのか。高校は”北陸どまり”でドラフト候補外も、青学で急成長

西尾典文

2021.01.22

昨年に首位打者を獲得した吉田。そのバッティングはいつから開花したのだろうか。高校時代を知るライターが振り返る。写真:徳原隆元

 現在のプロ野球で最も安定した打撃を誇る選手は誰か、と問われれば、多くの人が吉田正尚(オリックス)の名前を挙げるのではないだろうか。

 プロ入りから2年間は腰痛に悩まされていたものの、2018年から不動のレギュラーとなり、昨年は自身初タイトルとなる首位打者にも輝いている。NPBが通算記録として認めている4000打数以上の打率は青木宣親(ヤクルト)の.325が歴代トップだが、吉田の現時点での通算打率はそれに迫る.323。4000打数をクリアするにはまだ4~5年は必要となるとはいえ、今年で28歳という年齢を考えると、順調にいけば歴代上位に名を連ねる可能性は極めて高いだろう。

 そして吉田のバッティングにおいて特筆すべき点は、完全なアベレージタイプの打者ではなく、球界でも屈指の長打力を備えているというところだ。決して大柄ではないが強烈なスウィングを備え、昨年は本数を減らしたものの、2018年は26本、2019年は29本のホームランを放っており、打った瞬間それと分かる豪快な当たりも少なくない。果たしてこのような打撃スタイルはどのように確立されていったのか、アマチュア時代のプレーを振り返りながら迫ってみたいと思う。
 
 吉田のプレーを最初に見たのは、2009年6月に行われた高校野球の北信越大会、対桜井高校戦。敦賀気比高入学からわずか2ヵ月の1年生ながら4番打者として出場していた。当時のプロフィールは170㎝、67㎏と高校球児の中でも小柄だったが、ヘッドスピードには目を見張るものがあり、第1打席ではあっという間に二遊間を抜けていく鋭いセンター前タイムリーヒットを放っている。

 しかし、この時はどちらかというと強打者というよりもアベレージヒッターという選手で、その後に見た2年春の選抜、秋の北信越大会、3年春の北信越大会でもその印象が大きく変わることはなかった。1年春から活躍していたということもあって、北陸では名の知れた打者だったが、上背がないこともあり、高校3年時には有力なドラフト候補という声を聞いた記憶もない。

 そんな印象が一変したのが、青山学院大学入学後のことだった。大学で最初に吉田のプレーを見たのは2012年5月に行われた中央大戦。相手投手はこの年の有力なドラフト候補だった鍵谷陽平(巨人)だったが、そのストレートにまったく力負けすることなく、豪快なスウィングでライト前ヒットを放った。そこには、高校時代にはなかった迫力が備わっていたのだ。
 
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