プロ野球

まさに多士済々!“名将”ノムさんが育て上げた数々の愛弟子たち<SLUGGER>

筒居一孝(SLUGGER編集部)

2021.06.18

監督生活24年のノムさん。その間に多くの“弟子”たちを育て上げた。(写真:「野村克也-STORY BOX-」より)

 昨年2月10日に亡くなったノムさんこと野村克也氏は、歴代でも稀に見る名将だった。南海ホークス(現ソフトバンク)、ヤクルト、阪神、楽天の4球団で計24シーズンにわたって監督を務め、通算1565勝は歴代5位。どのチームにも手塩にかけて育てた教え子がおり、「野村学校」との言葉もあるほどだ。今回は、そんなノムさんと教え子たちのエピソードを紹介しよう。

■南海監督時代(1970~77年)
 プレーイング・マネジャーだった南海時代で最も有名なのが、"南海の三悪人"と名付けた江本孟紀、江夏豊、門田博光の3人だ。いずれも極めて我の強い性格でノムさんの手を焼かせた。門田などはホームランに並々ならぬこだわりを持ち、「ヒットの延長がホームラン」というノムさんの指導を最後まで聞かなかった。その意地の強さたるや、ノムさんの頼みであの王貞治が説得に担ぎ出されても、一切聞かずに頑としてフルスウィングを貫いたという逸話の持ち主である。

 だがその一方で、彼らによってノムさんは「指導力が鍛えられた」とも述べている。実際にノムさんは彼らを上手く操縦しており、江本はプロ2年目の72年に南海へトレード加入した際、ノムさんから「オレが受けたらお前は10勝する。うちでは2ケタ勝ったらエースなんだから、最初からエースナンバー付けとけ」と、背番号16のユニフォームを渡されて発奮。この年本当に16勝してエースに登りつめるが、実は「背番号16がエースナンバー」というのは、ノムさんの真っ赤なウソだった、というオチがある(江本以前に16を着けていたのは内野手だった)。

 江本とは違ってすでに阪神で確固たる実績を築いていた江夏も、ノムさんの「球界に革命を起こそう」というひと言を意気に感じ、先発へのこだわりを捨ててリリーフ転向を決意。その後球界を代表する抑えとして長く活躍したことで知られる。その後の監督人生の中で個性派揃いのさまざまな"生徒"を巧みに指導することができた基礎が、この南海時代からはうかがえる。
■ヤクルト時代(90~98年)
 80年に現役を引退した後、解説者や評論家として磨いた理論を駆使して黄金期を築いたチーム。「優勝チームに名捕手あり」の哲学から、マンツーマンの熱心な指導で名捕手・古田敦也を育てただけでなく、田畑一也や辻発彦、吉井理人ら移籍してきた選手を再ブレイクさせ、"野村再生工場"の異名がついたのもこの頃だった。

 大胆なコンバートも特徴で、当初はキャッチャーだった飯田哲也を、球界屈指の「1番・センター」に育て上げたことでも知られる。飯田の捕手らしからぬ俊足に目を付け、「何であいつが捕手をやってるんだ」とキャッチャーミットを没収した逸話はよく知られている。飯田は外野にコンバートされた後、91年から7年連続ゴールデングラブを獲得するなど、俊足だけでなく好守でも黄金時代に貢献した。また、目立った特徴のない先発投手だった高津臣吾(現ヤクルト監督)にシンカーを覚えさせ、抑えに抜擢したのもこの時代のことだ。

 また、データを重視する(Important Data)姿勢から、"ID野球"もスローガンとして定着した。その一つの例が、96年の巨人との開幕戦で小早川毅彦を大活躍させたエピソードだろう。前年に広島を自由契約になったかつてのスラッガーを、ノムさんはこの試合で5番に抜擢。相手は前の年に最多勝と最優秀防御率、最高勝率の三冠を獲得した当時の最強エース、斎藤雅樹だったが、ノムさんは「カウント3ー1から必ずカーブを投げてくる」というデータを見抜いていた。これを伝えられた小早川は、何と開幕戦3打席連続本塁打の離れ業。それだけでなく、この年は4年ぶりの2ケタ本塁打(12本)を記録するなど復活を果たし、"野村再生工場"の代表例となったことでも知られる。選手の育成や再生という戦略と、ID野球による戦術の双方が高度にかみ合った結果、ノムさんが指揮した9年間で、ヤクルトは3度の日本一を達成している。
NEXT
PAGE
阪神と楽天の生徒たち