日本球界屈指のスラッガーが放った目の覚めるような2発は、米球界に眠っていた"大記録"を呼び起こした。
現地4月23日、敵地で行なわれたミルウォーキー・ブルワーズ戦に「4番・レフト」で先発出場した吉田正尚(ボストン・レッドソックス)は、8回に1イニング2本塁打をマークした。
4対4で迎えた8回、まず吉田はマット・ブッシュの投じた76.4マイル(約122.9キロ)の甘いカーブを捉えてライトスタンドへ運ぶ値千金の勝ち越し弾をマーク。これで打線に火が付き、同じ回に2死満塁でふたたび打席に立つと、今度はハビー・ゲラが内角高めに投じた84.5マイル(約135.9キロ)のスライダーを強振。持ち前の図抜けたパワーで打球を右中間スタンドの2階席にまで運ぶグランドスラムとなった。
開幕から間もなくして深刻な打撃不振に陥り、4月18日時点で打率.167、OPS.560にまで落ち込んでいた吉田。だが、今回の一打で直近4試合連続ヒットとして、数字も打率.231、OPSも.723まで上昇させた。「本当にメジャーに馴染めるのか」という周囲の不安も拭いつつある。
チームメイトのジャスティン・ターナーが「壮大な打席だった」と褒めちぎった29歳の2発はMLBでも達成者の少ない記録でもあった。というのも、過去にメジャーリーグにおける新人打者で1イニング2発をやってのけたのは3人だけ。しかも、最後の達成者は61年前というから驚きだ。
ちなみに"最後の達成者"となっていたのは、ジョー・ペピトーン(1962年、ニューヨーク・ヤンキース)だ。熱心な野球ファンであれば、一度は聞いた経験があるのではないだろうか。なにを隠そう、彼はNPBでも活躍していた助っ人である。
ただ、ペピトーンの日本時代は「最悪」だと言っていい。なぜならとにかく素行が悪かったからだ。
元々MLBでも遅刻や欠勤を繰り返して、複数球団をお払い箱になっていた彼は1973年にヤクルト・アトムズ(現スワローズ)に入団。現役メジャーリーガーの電撃来日にファンの期待は膨らんだのだが、離婚裁判で米国に帰国したかと思うと、今度はアキレス腱痛を理由に無断帰国……。当然、大練習嫌いで、出たり、出なかったりを繰り返した彼のプレーは緩慢。1年目の終了時には、当時チームを率いていた名将・三原脩が「戦力に入れないでくれ」と球団に懇願したほどであった。
話は逸れてしまったが、吉田はそんな「日本球界史上最悪」と悪名高い助っ人が、最盛期に作った大記録に並んだわけである。良くも悪くも「日本」に関係のある二人のスラッガーが快挙を達成しているのは何とも興味深い。
構成●THE DIGEST編集部
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4対4で迎えた8回、まず吉田はマット・ブッシュの投じた76.4マイル(約122.9キロ)の甘いカーブを捉えてライトスタンドへ運ぶ値千金の勝ち越し弾をマーク。これで打線に火が付き、同じ回に2死満塁でふたたび打席に立つと、今度はハビー・ゲラが内角高めに投じた84.5マイル(約135.9キロ)のスライダーを強振。持ち前の図抜けたパワーで打球を右中間スタンドの2階席にまで運ぶグランドスラムとなった。
開幕から間もなくして深刻な打撃不振に陥り、4月18日時点で打率.167、OPS.560にまで落ち込んでいた吉田。だが、今回の一打で直近4試合連続ヒットとして、数字も打率.231、OPSも.723まで上昇させた。「本当にメジャーに馴染めるのか」という周囲の不安も拭いつつある。
チームメイトのジャスティン・ターナーが「壮大な打席だった」と褒めちぎった29歳の2発はMLBでも達成者の少ない記録でもあった。というのも、過去にメジャーリーグにおける新人打者で1イニング2発をやってのけたのは3人だけ。しかも、最後の達成者は61年前というから驚きだ。
ちなみに"最後の達成者"となっていたのは、ジョー・ペピトーン(1962年、ニューヨーク・ヤンキース)だ。熱心な野球ファンであれば、一度は聞いた経験があるのではないだろうか。なにを隠そう、彼はNPBでも活躍していた助っ人である。
ただ、ペピトーンの日本時代は「最悪」だと言っていい。なぜならとにかく素行が悪かったからだ。
元々MLBでも遅刻や欠勤を繰り返して、複数球団をお払い箱になっていた彼は1973年にヤクルト・アトムズ(現スワローズ)に入団。現役メジャーリーガーの電撃来日にファンの期待は膨らんだのだが、離婚裁判で米国に帰国したかと思うと、今度はアキレス腱痛を理由に無断帰国……。当然、大練習嫌いで、出たり、出なかったりを繰り返した彼のプレーは緩慢。1年目の終了時には、当時チームを率いていた名将・三原脩が「戦力に入れないでくれ」と球団に懇願したほどであった。
話は逸れてしまったが、吉田はそんな「日本球界史上最悪」と悪名高い助っ人が、最盛期に作った大記録に並んだわけである。良くも悪くも「日本」に関係のある二人のスラッガーが快挙を達成しているのは何とも興味深い。
構成●THE DIGEST編集部
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