またまたとんでもない打球だった。7月21日のレッドソックス戦で大谷翔平(ドジャース)が放った30号本塁打の飛距離は144.1メートル。もう少しでドジャー・スタジアムの場外に届くところだった。
【動画】観客もチームメイトも唖然!大谷翔平、シーズン30号本塁打はあわや場外の超特大弾
スタットキャストが導入された2015年以降では、同球場での2番目の飛距離である。1位は15年5月12日にジャンカルロ・スタントン(当時マーリンズ/現ヤンキース)が打った144.8mの場外弾で、左打者としては大谷が最長距離。普段から彼の特大弾を見慣れているはずのドジャースナインも、さすがに驚いていた。
ドジャー・スタジアムでは過去に6本場外アーチが出ており、ドジャースの選手では1997年9月21日にマイク・ピアッツァが打ったのが唯一である。他は99年5月22日のマーク・マグワイア(当時カーディナルス)、スタントン、21年9月30日のフェルナンド・タティースJr.(パドレス)だが、この4人はみな右打者。左打者で場外弾を打ったのは、60~80年代にパイレーツの主砲として活躍したウィリー・スタージェルだけだ。
しかも、スタージェルは2本打っている。1本目は69年8月5日で、これがドジャー・スタジアム初の場外アーチ。飛距離は154.4mとされている。73年5月8日の2本目は右翼スタンド後方の駐車場まで転がっていった。もちろんドジャー・スタジアム以外でも特大の一発を飛ばしていた。パイレーツの旧本拠球場スリー・リバース・スタジアムの最上階に届いたホームランは通算6本だったが、うち4本はスタージェルのものである。
彼のパワーの源は立派な体格にあった。身長188cm、体重は公称85kgながら、実際には100kgを超えていた。スウィングスピードも並外れていて、71年は48本塁打でタイトルを獲得し、MVP投票では2位。73年は44本塁打、119打点の二冠で再度次点、同年と翌74年の2年連続でOPSはリーグトップを記録した。 スタージェルは、パイレーツで一番の人気者でもあった。成績だけでなく、誰からも愛される好人物だったからである。60年代の同球団で最高の選手はロベルト・クレメンテだったが、性格は気難しいところがあり、尊敬はされていたけれども周囲に威圧感を与えてもいた。その点、スタージェルは朗らかでユーモラス、ファンからのサインの求めに気さくに応じて会話も楽しんだ。
他球団の選手たちとも仲が良く、レッズの名二塁手ジョー・モーガンは「球界でスタージェルを尊敬していない選手は一人もいない」と断言していた。主力投手のスティーブ・ブラスにイップスが生じ、ストライクが投げられなくなったときも、スタージェルは率先して投球練習に付き合った。
体重が増えるにつれて膝への負担が増し、30代に入ってから成績は下降線を描いていったが、79年は32本塁打、82打点。数字以上に、パイレーツの“親父”としてチームメイトを引っ張ったリーダーシップを評価され、史上最年長の39歳でMVPに選ばれた。リーグ優勝決定シリーズでもMVPに輝き、さらにはワールドシリーズでも30打数12安打、うち3本の本塁打を含む7本が長打の大暴れ。世界一に貢献し、レギュラーシーズン/リーグ優勝決定シリーズ/ワールドシリーズのすべてでMVPを受賞した初の選手となった。
82年を最後に42歳で現役引退、88年に殿堂入り。2001年、パイレーツの新球場PNCパークの開場当日に61歳で死去した。「気は優しくて力持ち」を体現していたスタージェル。「野球を楽しむのを忘れちゃいけない。真剣になりすぎて楽しめないなら、スーツを着てオフィスで仕事をした方がいい」との姿勢も大谷に通じる。いつか大谷も、スタージェルに次いで2人目の「ドジャー・スタジアム場外弾を打った左打者」となるだろうか。
文●出野哲也
【著者プロフィール】
いでの・てつや。1970年生まれ。『スラッガー』で「ダークサイドMLB――“裏歴史の主人公たち”」を連載中。NBA専門誌『ダンクシュート』にも寄稿。著書に『メジャー・リーグ球団史』『プロ野球ドラフト総検証1965-』(いずれも言視舎)。
【関連記事】「なんてこった。球場から飛び出すところだ」戦慄の打球音でかっ飛ばした大谷翔平の特大144m弾にド軍番記者は脱帽「この男は信じられない」
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スタットキャストが導入された2015年以降では、同球場での2番目の飛距離である。1位は15年5月12日にジャンカルロ・スタントン(当時マーリンズ/現ヤンキース)が打った144.8mの場外弾で、左打者としては大谷が最長距離。普段から彼の特大弾を見慣れているはずのドジャースナインも、さすがに驚いていた。
ドジャー・スタジアムでは過去に6本場外アーチが出ており、ドジャースの選手では1997年9月21日にマイク・ピアッツァが打ったのが唯一である。他は99年5月22日のマーク・マグワイア(当時カーディナルス)、スタントン、21年9月30日のフェルナンド・タティースJr.(パドレス)だが、この4人はみな右打者。左打者で場外弾を打ったのは、60~80年代にパイレーツの主砲として活躍したウィリー・スタージェルだけだ。
しかも、スタージェルは2本打っている。1本目は69年8月5日で、これがドジャー・スタジアム初の場外アーチ。飛距離は154.4mとされている。73年5月8日の2本目は右翼スタンド後方の駐車場まで転がっていった。もちろんドジャー・スタジアム以外でも特大の一発を飛ばしていた。パイレーツの旧本拠球場スリー・リバース・スタジアムの最上階に届いたホームランは通算6本だったが、うち4本はスタージェルのものである。
彼のパワーの源は立派な体格にあった。身長188cm、体重は公称85kgながら、実際には100kgを超えていた。スウィングスピードも並外れていて、71年は48本塁打でタイトルを獲得し、MVP投票では2位。73年は44本塁打、119打点の二冠で再度次点、同年と翌74年の2年連続でOPSはリーグトップを記録した。 スタージェルは、パイレーツで一番の人気者でもあった。成績だけでなく、誰からも愛される好人物だったからである。60年代の同球団で最高の選手はロベルト・クレメンテだったが、性格は気難しいところがあり、尊敬はされていたけれども周囲に威圧感を与えてもいた。その点、スタージェルは朗らかでユーモラス、ファンからのサインの求めに気さくに応じて会話も楽しんだ。
他球団の選手たちとも仲が良く、レッズの名二塁手ジョー・モーガンは「球界でスタージェルを尊敬していない選手は一人もいない」と断言していた。主力投手のスティーブ・ブラスにイップスが生じ、ストライクが投げられなくなったときも、スタージェルは率先して投球練習に付き合った。
体重が増えるにつれて膝への負担が増し、30代に入ってから成績は下降線を描いていったが、79年は32本塁打、82打点。数字以上に、パイレーツの“親父”としてチームメイトを引っ張ったリーダーシップを評価され、史上最年長の39歳でMVPに選ばれた。リーグ優勝決定シリーズでもMVPに輝き、さらにはワールドシリーズでも30打数12安打、うち3本の本塁打を含む7本が長打の大暴れ。世界一に貢献し、レギュラーシーズン/リーグ優勝決定シリーズ/ワールドシリーズのすべてでMVPを受賞した初の選手となった。
82年を最後に42歳で現役引退、88年に殿堂入り。2001年、パイレーツの新球場PNCパークの開場当日に61歳で死去した。「気は優しくて力持ち」を体現していたスタージェル。「野球を楽しむのを忘れちゃいけない。真剣になりすぎて楽しめないなら、スーツを着てオフィスで仕事をした方がいい」との姿勢も大谷に通じる。いつか大谷も、スタージェルに次いで2人目の「ドジャー・スタジアム場外弾を打った左打者」となるだろうか。
文●出野哲也
【著者プロフィール】
いでの・てつや。1970年生まれ。『スラッガー』で「ダークサイドMLB――“裏歴史の主人公たち”」を連載中。NBA専門誌『ダンクシュート』にも寄稿。著書に『メジャー・リーグ球団史』『プロ野球ドラフト総検証1965-』(いずれも言視舎)。
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