4月18日、阪神などで歴代3位の通算320勝を挙げた名投手・小山正明が急性心不全により死去した。90歳だった。
日本にプロ野球が産声を上げた1934年、兵庫県に生を受けた小山は“ミスタープロ野球”こと長嶋茂雄と同世代だ。長嶋と王貞治の“ON砲”を擁する巨人に対し、小山と村山実の2大エースで対抗する阪神。セ・リーグの長い歴史の中でも、1950年代後半から60年代前半にかけての“伝統の一戦”は特に熱かった。
時代の一翼を担っていた小山が、“ミスター・タイガース”の一角に数えられる2歳年下の村山に比べ、どこか不遇な気がするのはなぜだろう。63年、山内一弘との“世紀のトレード”で放出され、生涯タイガースではなくなってしまったという以上の何かがあるような気がしてならない。
地元・兵庫県出身の小山は、53年3月にテスト生兼打撃投手として阪神入り。後に“精密機械”と称される針の穴を通すコントロールは、打撃投手をしながら磨かれた。ストライクが入らなければ、戦争帰りの怖い先輩たちに怒鳴り散らされる。“初代ミスター・タイガース”藤村富美男などは、ボールが3つ続くと黙って隣のケージに移動してしまったという。厳しい環境で鍛えられたからか、引退後はよく「今の投手はコントロールが悪すぎるよ」とぼやいていた。
制球力に絶対の自信があったからか、伝え聞く小山のピッチングはどこかそつがない印象を受ける。「10対9でも10対0でも勝ちは勝ち」というドライな性格で、大差がつけば力を抜くこともあった。たとえ点差があろうとなかろうと、どんな時でも闘志むき出し全力投球が身上の村山の方が、ファンに人気があったのは確かだろう。
59年6月25日の巨人戦、歴史に名高いプロ野球史上唯一の天覧試合でも、長嶋にサヨナラホームランを打たれて歴史の当事者になったのは村山の方だった。だが、実はこの試合に先発したのは小山で、7回途中に村山にマウンドを明け渡さなければ、もしかしたら歴史は変わっていたかもしれない。
特にいがみ合っていたわけでもないのに、2人はいつの間にか不仲説がささやかれるようになった。62年に村山がMVP、小山が沢村賞をそれぞれ分け合うと、いよいよ「両雄並び立たず」という声は強くなっていく。翌年オフに東京オリオンズ(現ロッテ)の主砲・山内との“世紀のトレード”では、小山が放出されて村山が残った。
当時のオリオンズのオーナーで、大映の社長でもあった永田雅一は、獲得にあたって「小山の職人芸のピッチングに惚れた」と述べたが、小山には確かに孤高の職人気質のところがあった。豪傑じみた選手の多かった時代に、健康に留意して酒も飲まず、たばこもたしなまなかった。ペットに猿を飼っていたという逸話を見ても、少し変わった人物だったのは間違いないだろう。
オリオンズに移ってからも小山は針の穴を通すコントロールで黙々と投げ続け、移籍1年目には30勝で最多勝。71年には通算300勝にも到達し、その2年後に引退した。その後は古巣の阪神や西武、ダイエー(現ソフトバンク)などでコーチを務めたが、21世紀に入ると現場からは遠ざかっていた。
今でもNPB公式サイトの通算勝利数のページを見れば、3位に「320勝 小山正明」の名前が燦然と輝いている。200勝すら極めて難しくなった現代において、この記録に迫ることはもはや限りなく不可能に近い。小山がこの世を去っても、記録は残る。だが、ただ記録上の名前としてだけでなく、本人が現役時代に築いた足跡も、長く語り継いでいきたいものだ。
文●筒居一孝(SLUGGER編集部)
日本にプロ野球が産声を上げた1934年、兵庫県に生を受けた小山は“ミスタープロ野球”こと長嶋茂雄と同世代だ。長嶋と王貞治の“ON砲”を擁する巨人に対し、小山と村山実の2大エースで対抗する阪神。セ・リーグの長い歴史の中でも、1950年代後半から60年代前半にかけての“伝統の一戦”は特に熱かった。
時代の一翼を担っていた小山が、“ミスター・タイガース”の一角に数えられる2歳年下の村山に比べ、どこか不遇な気がするのはなぜだろう。63年、山内一弘との“世紀のトレード”で放出され、生涯タイガースではなくなってしまったという以上の何かがあるような気がしてならない。
地元・兵庫県出身の小山は、53年3月にテスト生兼打撃投手として阪神入り。後に“精密機械”と称される針の穴を通すコントロールは、打撃投手をしながら磨かれた。ストライクが入らなければ、戦争帰りの怖い先輩たちに怒鳴り散らされる。“初代ミスター・タイガース”藤村富美男などは、ボールが3つ続くと黙って隣のケージに移動してしまったという。厳しい環境で鍛えられたからか、引退後はよく「今の投手はコントロールが悪すぎるよ」とぼやいていた。
制球力に絶対の自信があったからか、伝え聞く小山のピッチングはどこかそつがない印象を受ける。「10対9でも10対0でも勝ちは勝ち」というドライな性格で、大差がつけば力を抜くこともあった。たとえ点差があろうとなかろうと、どんな時でも闘志むき出し全力投球が身上の村山の方が、ファンに人気があったのは確かだろう。
59年6月25日の巨人戦、歴史に名高いプロ野球史上唯一の天覧試合でも、長嶋にサヨナラホームランを打たれて歴史の当事者になったのは村山の方だった。だが、実はこの試合に先発したのは小山で、7回途中に村山にマウンドを明け渡さなければ、もしかしたら歴史は変わっていたかもしれない。
特にいがみ合っていたわけでもないのに、2人はいつの間にか不仲説がささやかれるようになった。62年に村山がMVP、小山が沢村賞をそれぞれ分け合うと、いよいよ「両雄並び立たず」という声は強くなっていく。翌年オフに東京オリオンズ(現ロッテ)の主砲・山内との“世紀のトレード”では、小山が放出されて村山が残った。
当時のオリオンズのオーナーで、大映の社長でもあった永田雅一は、獲得にあたって「小山の職人芸のピッチングに惚れた」と述べたが、小山には確かに孤高の職人気質のところがあった。豪傑じみた選手の多かった時代に、健康に留意して酒も飲まず、たばこもたしなまなかった。ペットに猿を飼っていたという逸話を見ても、少し変わった人物だったのは間違いないだろう。
オリオンズに移ってからも小山は針の穴を通すコントロールで黙々と投げ続け、移籍1年目には30勝で最多勝。71年には通算300勝にも到達し、その2年後に引退した。その後は古巣の阪神や西武、ダイエー(現ソフトバンク)などでコーチを務めたが、21世紀に入ると現場からは遠ざかっていた。
今でもNPB公式サイトの通算勝利数のページを見れば、3位に「320勝 小山正明」の名前が燦然と輝いている。200勝すら極めて難しくなった現代において、この記録に迫ることはもはや限りなく不可能に近い。小山がこの世を去っても、記録は残る。だが、ただ記録上の名前としてだけでなく、本人が現役時代に築いた足跡も、長く語り継いでいきたいものだ。
文●筒居一孝(SLUGGER編集部)