83年にはチャールズ・ラドボーン、ジム・ウィットニーの2人が達成した。ラドボーンは桁外れのスタミナの持ち主で、108安打&315奪三振だったこの年は、グレイズの98試合中76試合に登板。うち68試合は先発で47勝を稼いだ。翌84年にはメジャー記録の年間60勝、通算310勝でウォード同様に殿堂入りしている。
ウィットニーはボストン・ビーンイーターズ(現在のアトランタ・ブレーブス)に入団した81年にリーグ最多の31勝。33敗も最多で、両部門での1位は初めてだった。打者にわざとボールをぶつけて威嚇するという、あまり褒められないタイプの投手でもあったという。83年は115安打、そしてリーグトップの345三振を奪ったが、現役中の91年、33歳の若さで結核を病んで亡くなった。
4人目のアドニス・テリーは、アメリカン・アソシエーション時代の87年にも103安打/138奪三振、90年はブルックリン・ブライドグルームズ(現ロサンゼルス・ドジャース)で101安打/185奪三振。この記録を2度達成した唯一の選手である。「アドニス」とは神話上の美青年の名が由来のニックネーム。実際ハンサムで女性ファンが多かったらしく、その点も大谷との共通項だ。
この4人と大谷が圧倒的に違うのはホームランの数だ。19世紀のメジャーでは柵越えの本塁打は少なく、ウォードは2本、ウィットニーは5本、ラドボーンは3本、テリーは4本。ウィットニーの本数はこれでもリーグ6位だった。100安打&100奪三振を記録したのべ11人の本塁打数の合計が、ちょうど現在の大谷の本数である37本。あらゆる点で環境の異なる時代の記録を、大谷は甦らせた。
なお、投手の年間最多安打はガイ・ヘッカーの117本(1886年)。大谷の安打の大半はDHで出場時のものだけれども、片手間に投げているわけではないから、この本数を抜けば新記録と見なしていいだろう。今現在、彼が繰り広げているパフォーマンスは、誇張ではなく歴史的な出来事。それを目の当たりにできている我々は実に幸運なのだ。
文●出野哲也
【著者プロフィール】
いでの・てつや。1970年生まれ。『スラッガー』で「ダークサイドMLB――“裏歴史の主人公たち”」を連載中。NBA専門誌『ダンクシュート』にも寄稿。著書に『プロ野球 埋もれたMVPを発掘する本』『メジャー・リーグ球団史』(いずれも言視舎)。
【PHOTO】世界が驚嘆する偉才・大谷翔平のキャリアを厳選ショットで一挙公開!花巻東、日ハム、エンジェルスでの活躍を振り返る
ウィットニーはボストン・ビーンイーターズ(現在のアトランタ・ブレーブス)に入団した81年にリーグ最多の31勝。33敗も最多で、両部門での1位は初めてだった。打者にわざとボールをぶつけて威嚇するという、あまり褒められないタイプの投手でもあったという。83年は115安打、そしてリーグトップの345三振を奪ったが、現役中の91年、33歳の若さで結核を病んで亡くなった。
4人目のアドニス・テリーは、アメリカン・アソシエーション時代の87年にも103安打/138奪三振、90年はブルックリン・ブライドグルームズ(現ロサンゼルス・ドジャース)で101安打/185奪三振。この記録を2度達成した唯一の選手である。「アドニス」とは神話上の美青年の名が由来のニックネーム。実際ハンサムで女性ファンが多かったらしく、その点も大谷との共通項だ。
この4人と大谷が圧倒的に違うのはホームランの数だ。19世紀のメジャーでは柵越えの本塁打は少なく、ウォードは2本、ウィットニーは5本、ラドボーンは3本、テリーは4本。ウィットニーの本数はこれでもリーグ6位だった。100安打&100奪三振を記録したのべ11人の本塁打数の合計が、ちょうど現在の大谷の本数である37本。あらゆる点で環境の異なる時代の記録を、大谷は甦らせた。
なお、投手の年間最多安打はガイ・ヘッカーの117本(1886年)。大谷の安打の大半はDHで出場時のものだけれども、片手間に投げているわけではないから、この本数を抜けば新記録と見なしていいだろう。今現在、彼が繰り広げているパフォーマンスは、誇張ではなく歴史的な出来事。それを目の当たりにできている我々は実に幸運なのだ。
文●出野哲也
【著者プロフィール】
いでの・てつや。1970年生まれ。『スラッガー』で「ダークサイドMLB――“裏歴史の主人公たち”」を連載中。NBA専門誌『ダンクシュート』にも寄稿。著書に『プロ野球 埋もれたMVPを発掘する本』『メジャー・リーグ球団史』(いずれも言視舎)。
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