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プロ野球

まだその雄姿を見たかった。現役中に志半ばで倒れたプロ野球選手たち<SLUGGER>

SLUGGER編集部

2021.08.07

 長い闘病の末、とうとう力尽きてしまった悲劇もある。00年10月13日に逝去した藤井将雄だ。

 プロ5年目の1999年、ダイエー(現ソフトバンク)で当時のパ・リーグ記録となる26ホールドを記録した藤井は、“炎の中継ぎ”と呼ばれていた。この活躍でリーグ優勝に大きく貢献したが、日本シリーズ直前に急遽入院。「肺がんで余命3ヵ月」との診断を受けた。

 驚異の回復力で翌年には二軍戦で登板したが、6月になって再び入院。チームが2年連続リーグ優勝を果たしたのを見届けた後に息を引き取った。葬儀の後の日本シリーズ第1戦では、元チームメイトの工藤公康(当時巨人)と若田部健一が、ともに藤井の遺骨を偲ばせてマウンドに上がったという逸話が残っている。背番号15は親会社がソフトバンクに代わった現在もホークスの準永久欠番であり、PayPayドームの15番通路は「藤井ゲート」の名で呼ばれている。

 すでに現役選手ではなかったが、“球界のキムタク”こと木村拓也の突然の訃報には、衝撃を受けた人も多かっただろう。日本ハム、広島、巨人でプレーした現役時代は内外野をこなすユーティリティ・プレーヤーとして活躍。自分の役割には「どこでも守れる控えの一番手も、プロ野球では立派なポジション」と誇りを持ち、巨人時代は原辰徳監督から「自己犠牲の最たるもの」と称賛されたこともあった。
 
 09年の引退直後にそのまま巨人のコーチに就任するという、“外様”としては異例の待遇を受ていたが、指導者としての道を歩み始めた矢先の10年4月2日、広島戦のシートノック中にくも膜下出血で突然倒れ、意識が戻らないまま5日後に37歳で亡くなった。それから11年が経っても、原監督が「チームに残してくれたものは今でも大きい」と語るなど、木村の存在は巨人軍に息づいている。

 ホークスはこうした悲劇が多く見舞われている球団で、藤井や前述の久保寺以外にも、65年11月には監督に就任した直後の蔭山和夫が急死してしまったことがある。在任4日は史上最短記録。蔭山の監督就任はそれまで指揮を執っていた鶴岡一人監督の勇退を受けてのものだったが、訃報に接した鶴岡は「南海以外のユニフォームは着ない」と宣言して監督に復帰。蔭山の遺志を継いで69年まで指揮を執り、在任期間は史上最長の23年に及んだ。

 ここに挙げた悲劇はいずれも「志半ばで倒れた」というフレーズがよく当てはまる。木下にしても久保寺や藤井にしても、まだチームの勝利に貢献し続け、ファンを沸かせることができたはずだった。特に木下の場合、野茂英雄や田中将大(楽天)からフォークやスプリットを学び、飛躍を感じさせていたが、右肩の故障と今回の悲劇がそれを阻んでしまった。木村や蔭山も指導者として成功し、球界の発展に貢献していたかもしれない。失われたものの大きさを思うと、あまりにも惜しいと言わざるを得ない。

構成●SLUGGER編集部
 

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