●助っ人初にして唯一の達成者
メジャーリーグでキャリアをスタートさせた外国人選手が「日米通算2000安打」に至った例は10回あるが、このうちNPBのみで2000本の大台をクリアしているのはただ一人、アレックス・ラミレス(当時DeNA)しかいない。13年4月6日の古巣ヤクルト戦、かつての盟友・石川雅規から2000本安打を達成。通算1695試合での到達は、長嶋を抜いて右打者史上最速でもあった。
●意外と少ない「40代に入ってからの達成者」
2000安打ともなれば、達成にはかなり時間がかかるイメージがあるが、実はほとんどが30代で達成している(最年少記録は榎本喜八の31歳7ヵ月)。40代で到達した選手は意外と少なく、これまで8人しかいない。そんな“中年の星”の第1号は新井宏昌(当時近鉄)。1992年7月8日のオリックス戦で達成した時には、40歳2ヵ月となっていた。87年には打率.366で首位打者に輝くなど打撃職人として鳴らしたが、大卒でしかもプロ4年目までは苦闘が続くなど、実は結構な“遅咲き”だったのだ。
●シーズン打率3割が一度もないのに2000本
2000安打の達成者のほとんどは、球史に名を残す強打者。もしくは巧打者ばかり。当然、シーズン打率3割の一度や二度はクリアしているものなのだが、打率3割達成なしでマイルストーンに到達した選手が2人いる。その最初の選手がV9巨人の1番打者として鳴らしたスピードスター、柴田勲だ。歴代3位の通算579盗塁と足は速かったが、打率は78年の.292が最高。20年のキャリアで一度も3割の壁は超えられなかったが、ヒットはコツコツと積み上げ、80年8月7日のヤクルト戦で史上13人目の2000本安打達成者となった。
なお2人目は07年5月17日の楽天戦で達成した“ミスター日本ハム”こと田中幸雄で、こちらは同年に引退するまでの22年間で、キャリアハイは95年の打率.291だった。なお、83年に2000安打に到達している“鉄人”衣笠祥雄(当時広島)も、この時点でシ-ズン打率3割は一度もなかったのだが、翌年に自己最高の.329を記録して不名誉記録(?)を逃れている。
●記念すべき節目をホームランで決めた最初の男
ボテボテの内野安打であろうと特大の一発であろうとヒットはヒット。だが、記念すべき2000本の節目をホームランで達成し、自ら祝砲を挙げた選手はこれまでに4人いる。その第1号は松原誠(当時大洋)である。リーグ最多安打2度、シーズン30本塁打以上3度で一塁守備にも定評がありながら、現役期間が王貞治とモロ被りしてしまったために、主要タイトルにもベストナインにもゴールデン・グラブにも縁がなかった“無冠の帝王”であるこの人は、80年4月23日の阪神戦の初回に逆転3ランをぶち込んで2000安打に到達。この日4打点の活躍で快挙に花を添えた。
●2000安打を3度も献上した“名球会男”とは?
そうそうお目にかかれないからこそ2000安打は快挙と呼ばれるのだが、その2000本目のヒットを複数献上した」という投手も2人いる。しかもその第1号である東尾修(元西武)は、どういうわけか3度も献上してしまうという史上唯一の不名誉記録(?)を持っている。
1回目は70年10月18日の南海(現ソフトバンク戦)で、相手はかの野村克也。しかもシーズン最終戦でのことだった。2回目は72年7月1日のこれまた南海戦で、広瀬叔功から5回に満塁で2点タイムリーを打たれて快挙達成を許した。さらにその約1ヵ月後の8月19日東映(現日本ハム)戦では、張本勲にレフト前に運ばれた。まだ当時の東尾は22歳になったばかりの若造で、西武のエースとして頭角を現し、ゆくゆくは名球会入りするような大投手となるのはまだ先のことであった。
なお、東尾に次ぐ史上2人目の「2000安打を複数回献上」を達成したのは中田賢一である。中日時代の13年5月5日には中村紀洋(当時DeNA)に、ソフトバンク移籍後の15年7月28日には松井稼頭央(当時楽天)に、それぞれ節目のヒットを打たれている。
文●筒居一孝(SLUGGER編集部)
メジャーリーグでキャリアをスタートさせた外国人選手が「日米通算2000安打」に至った例は10回あるが、このうちNPBのみで2000本の大台をクリアしているのはただ一人、アレックス・ラミレス(当時DeNA)しかいない。13年4月6日の古巣ヤクルト戦、かつての盟友・石川雅規から2000本安打を達成。通算1695試合での到達は、長嶋を抜いて右打者史上最速でもあった。
●意外と少ない「40代に入ってからの達成者」
2000安打ともなれば、達成にはかなり時間がかかるイメージがあるが、実はほとんどが30代で達成している(最年少記録は榎本喜八の31歳7ヵ月)。40代で到達した選手は意外と少なく、これまで8人しかいない。そんな“中年の星”の第1号は新井宏昌(当時近鉄)。1992年7月8日のオリックス戦で達成した時には、40歳2ヵ月となっていた。87年には打率.366で首位打者に輝くなど打撃職人として鳴らしたが、大卒でしかもプロ4年目までは苦闘が続くなど、実は結構な“遅咲き”だったのだ。
●シーズン打率3割が一度もないのに2000本
2000安打の達成者のほとんどは、球史に名を残す強打者。もしくは巧打者ばかり。当然、シーズン打率3割の一度や二度はクリアしているものなのだが、打率3割達成なしでマイルストーンに到達した選手が2人いる。その最初の選手がV9巨人の1番打者として鳴らしたスピードスター、柴田勲だ。歴代3位の通算579盗塁と足は速かったが、打率は78年の.292が最高。20年のキャリアで一度も3割の壁は超えられなかったが、ヒットはコツコツと積み上げ、80年8月7日のヤクルト戦で史上13人目の2000本安打達成者となった。
なお2人目は07年5月17日の楽天戦で達成した“ミスター日本ハム”こと田中幸雄で、こちらは同年に引退するまでの22年間で、キャリアハイは95年の打率.291だった。なお、83年に2000安打に到達している“鉄人”衣笠祥雄(当時広島)も、この時点でシ-ズン打率3割は一度もなかったのだが、翌年に自己最高の.329を記録して不名誉記録(?)を逃れている。
●記念すべき節目をホームランで決めた最初の男
ボテボテの内野安打であろうと特大の一発であろうとヒットはヒット。だが、記念すべき2000本の節目をホームランで達成し、自ら祝砲を挙げた選手はこれまでに4人いる。その第1号は松原誠(当時大洋)である。リーグ最多安打2度、シーズン30本塁打以上3度で一塁守備にも定評がありながら、現役期間が王貞治とモロ被りしてしまったために、主要タイトルにもベストナインにもゴールデン・グラブにも縁がなかった“無冠の帝王”であるこの人は、80年4月23日の阪神戦の初回に逆転3ランをぶち込んで2000安打に到達。この日4打点の活躍で快挙に花を添えた。
●2000安打を3度も献上した“名球会男”とは?
そうそうお目にかかれないからこそ2000安打は快挙と呼ばれるのだが、その2000本目のヒットを複数献上した」という投手も2人いる。しかもその第1号である東尾修(元西武)は、どういうわけか3度も献上してしまうという史上唯一の不名誉記録(?)を持っている。
1回目は70年10月18日の南海(現ソフトバンク戦)で、相手はかの野村克也。しかもシーズン最終戦でのことだった。2回目は72年7月1日のこれまた南海戦で、広瀬叔功から5回に満塁で2点タイムリーを打たれて快挙達成を許した。さらにその約1ヵ月後の8月19日東映(現日本ハム)戦では、張本勲にレフト前に運ばれた。まだ当時の東尾は22歳になったばかりの若造で、西武のエースとして頭角を現し、ゆくゆくは名球会入りするような大投手となるのはまだ先のことであった。
なお、東尾に次ぐ史上2人目の「2000安打を複数回献上」を達成したのは中田賢一である。中日時代の13年5月5日には中村紀洋(当時DeNA)に、ソフトバンク移籍後の15年7月28日には松井稼頭央(当時楽天)に、それぞれ節目のヒットを打たれている。
文●筒居一孝(SLUGGER編集部)