いくつかの報道によると、ジャイアンツがこの一打を評価したため、翌年、青木を獲得したそうだが、彼らの目利きは間違っておらず、青木は打率3割をキープする活躍を見せた。ところが6月に死球による右足腓骨の骨折、8月には頭部死球の影響で重度の脳震とうとなり、打撃の下降が止まらないまま健康上の理由で戦列を離れ、シーズンを終えた。
翌16年、マリナーズに移籍した青木は、波のある序盤戦を経て6月に3Aに降格。カリフォルニア州のフレズノという町で、マイナーでの初戦を迎えた。現場についたのは試合開始の4時間前だった。球場に入ると、観客はもちろん、ホームチームの選手たちもいない地方球場の外野を、黙々と走り続ける彼の姿があった。
邪魔しちゃいけないと思って、ライトのポール際で軽く会釈し、踵を返してレフトのポールに向かって走り出した彼のTシャツの背中に、「PROVE YOURSELF RIGHT(自分が正しいと証明しろ)」というメッセージがプリントされていた。当時、マリナーズの主砲だったロビンソン・カノーがチームメイトを鼓舞するために作ったTシャツだった。
当時の青木を象徴するような言葉だと思った。当時、彼自身がこう言っている。
「マイナーに降格したこと自体は、実際、成績が残ってなかったんだから仕方がない。でも、やってたことは間違っていないと思う。マイナーに落ちる直前は打撃の調子が上がっていたわけだし。だから今は自分を追い込んでもいい。これを機会に、身体を一から鍛え直したい」
炎天下のマイナー球場でイチから鍛え直した彼はメジャーに復帰し、翌年はアストロズで日米通算2000安打を達成。シーズン途中にブルージェイズにトレードされ、最終的にはメッツでMLBにおけるキャリアを締めくくった。そして、日本球界復帰後は、スワローズの日本一に貢献し、NPB通算1954安打、MLB通算774安打を併せれば、歴代5位の日米通算2728安打(※10月1日終了時点)を記録した。 日米通算21年にも及ぶ長い現役生活。後年はもちろん家族の存在が支えとなっていたはずだが、大学時代から彼を突き動かしていたものは別にあるような気がする。
彼の引退ニュースを聞いた時、1本のヒットが打てなくて落ち込んでいた姿や、スランプの渦中に「考えるのをやめたら終わりでしょ」と言い、あわやワールドシリーズのヒーローとなるような一打を放った強気。マイナー球場で黙々と身体をいじめ、虎視眈々と復活の時を待ったシーンを思い浮かべたのは、偶然ではないと思う。
青木宣親はいつも、必死だったのだ。
考えてみれば、彼は元々、宮崎県の無名校から東京六大学の首位打者となり、プロ野球でのし上がった選手だ。あのニコニコ笑顔の下には、何が何でもプロで成功してやるという強い気持ちがあり、私がアメリカで見た彼の素顔は、そのほんの一部分に過ぎなかったのだ。
今、思えば、絶望的にクソ暑いマイナー球場の片隅で青木が言ったひとことは、彼の野球人生を反映したものであり、これからもずっと忘れないだろう。
「絶対にここから這い上がってやりますよ」
心の内に秘めた激しい思い。必死にもがき続けた稀代の安打製造機。そんな野球選手をたとえ一時期でも、至近距離で取材できたことに感謝する、引退試合の夜である――。
文●ナガオ勝司
【著者プロフィール】
シカゴ郊外在住のフリーランスライター。'97年に渡米し、アイオワ州のマイナーリーグ球団で取材活動を始め、ロードアイランド州に転居した'01年からはメジャーリーグが主な取材現場になるも、リトルリーグや女子サッカー、F1GPやフェンシングなど多岐に渡る。'08年より全米野球記者協会会員となり、現在は米野球殿堂の投票資格を有する。日米で職歴多数。私見ツイッター@KATNGO
【関連記事】「マウンドに上がるまですごく恐怖心があって、足もガタガタ震えてました」今永昇太が語る“日本人対決の舞台裏”と大谷、山本へのリスペクト<SLUGGER>
翌16年、マリナーズに移籍した青木は、波のある序盤戦を経て6月に3Aに降格。カリフォルニア州のフレズノという町で、マイナーでの初戦を迎えた。現場についたのは試合開始の4時間前だった。球場に入ると、観客はもちろん、ホームチームの選手たちもいない地方球場の外野を、黙々と走り続ける彼の姿があった。
邪魔しちゃいけないと思って、ライトのポール際で軽く会釈し、踵を返してレフトのポールに向かって走り出した彼のTシャツの背中に、「PROVE YOURSELF RIGHT(自分が正しいと証明しろ)」というメッセージがプリントされていた。当時、マリナーズの主砲だったロビンソン・カノーがチームメイトを鼓舞するために作ったTシャツだった。
当時の青木を象徴するような言葉だと思った。当時、彼自身がこう言っている。
「マイナーに降格したこと自体は、実際、成績が残ってなかったんだから仕方がない。でも、やってたことは間違っていないと思う。マイナーに落ちる直前は打撃の調子が上がっていたわけだし。だから今は自分を追い込んでもいい。これを機会に、身体を一から鍛え直したい」
炎天下のマイナー球場でイチから鍛え直した彼はメジャーに復帰し、翌年はアストロズで日米通算2000安打を達成。シーズン途中にブルージェイズにトレードされ、最終的にはメッツでMLBにおけるキャリアを締めくくった。そして、日本球界復帰後は、スワローズの日本一に貢献し、NPB通算1954安打、MLB通算774安打を併せれば、歴代5位の日米通算2728安打(※10月1日終了時点)を記録した。 日米通算21年にも及ぶ長い現役生活。後年はもちろん家族の存在が支えとなっていたはずだが、大学時代から彼を突き動かしていたものは別にあるような気がする。
彼の引退ニュースを聞いた時、1本のヒットが打てなくて落ち込んでいた姿や、スランプの渦中に「考えるのをやめたら終わりでしょ」と言い、あわやワールドシリーズのヒーローとなるような一打を放った強気。マイナー球場で黙々と身体をいじめ、虎視眈々と復活の時を待ったシーンを思い浮かべたのは、偶然ではないと思う。
青木宣親はいつも、必死だったのだ。
考えてみれば、彼は元々、宮崎県の無名校から東京六大学の首位打者となり、プロ野球でのし上がった選手だ。あのニコニコ笑顔の下には、何が何でもプロで成功してやるという強い気持ちがあり、私がアメリカで見た彼の素顔は、そのほんの一部分に過ぎなかったのだ。
今、思えば、絶望的にクソ暑いマイナー球場の片隅で青木が言ったひとことは、彼の野球人生を反映したものであり、これからもずっと忘れないだろう。
「絶対にここから這い上がってやりますよ」
心の内に秘めた激しい思い。必死にもがき続けた稀代の安打製造機。そんな野球選手をたとえ一時期でも、至近距離で取材できたことに感謝する、引退試合の夜である――。
文●ナガオ勝司
【著者プロフィール】
シカゴ郊外在住のフリーランスライター。'97年に渡米し、
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