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“史上最高のディフェンダー”“究極の勝利者”“人種差別と戦った闘士”。永遠に語り継がれるラッセルの伝説【NBAレジェンド列伝・後編】<DUNKSHOOT>

出野哲也

2022.08.15

11度のリーグ制覇を成し遂げるだけでなく、コート外では人種差別とも戦ったラッセル。彼の名は永遠に語り継がれることだろう。(C)Getty Images

■プロスポーツ界初の黒人HC、ラッセルこそ究極の勝利者

 こうした活躍の陰で、ラッセルは人種差別とも戦っていた。彼がNBA入りした1950年代は、公民権運動が盛んになる前の時代。白人のチームメイトとは、宿泊や食事の場が別々ということも珍しくなかった。彼がスーパースターとなってからも待遇は改善されず、本拠地のボストンでも「人種差別の見本市」と表現するほど不快な目に遭い、「差別問題への取り組みが甘い」とボストン市当局を公然と非難したこともあった。

 次第にラッセルは気難しく、人を寄せつけない人間になっていった。メディアへの応対だけでなく、ファンにサインを求められても頑固に拒否。1972年に背番号6が永久欠番になった時も「セレモニーは観客のいないところでやってくれ」と希望し、関係者だけで執り行なった。1975年のバスケットボール殿堂入り式典にも欠席。その頑なな態度は、白人と黒人の違いはあっても、同じボストンのスポーツ・ヒーローだったテッド・ウィリアムズ(MLB)と共通する部分があった。

 人一倍人種問題に敏感だったラッセルが、アメリカ4大プロスポーツで最初の黒人ヘッドコーチになったのは必然だったのかもしれない。1966-67シーズン、球団社長の座に退いたアワーバックは後継者にラッセルを指名した。
 
「引き受けたのは"黒人で初めて"という肩書きのためではない。それまでもキャプテンとして、レッドが退場になった時に指揮を執っていたからね。私の試合への理解度や統率力を評価されたからだと思っている」

 兼任コーチ初年度こそ、チェンバレンが加入したフィラデルフィア・セブンティシクサーズに苦杯を喫し、連覇が途切れてしまったが、1968年は覇権を奪回。続く1969年、現役最後のシーズンも苦しみながら11度目の栄冠を勝ち獲った。プレーオフ第7戦の戦績は通算10戦全勝。ラッセルが究極の勝利者であることを如実に物語る数字だ。

■究極の勝利者として永遠に語り継がれる存在

 1969年を最後にヘッドコーチからも退き、セルティックスを退団。1973年にはシアトル・スーパーソニックス(現オクラホマシティ・サンダー)のゼネラルマネージャー兼ヘッドコーチとして復帰し、チームを4年間で2度プレーオフに導いた。その後テレビ解説者を経て、1990年にサクラメント・キングスのヘッドコーチとなったが、この時は1年と持たなかった。
 
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