2003年のNBAドラフトと言えば、長い歴史の中でもレブロン・ジェームズ(ロサンゼルス・レイカーズ)ら才能ある選手たちが集った“最も豊作だった年”のひとつだ。そのなかで、レブロンに次ぐ2位で指名されたダーコ・ミリチッチ(元デトロイト・ピストンズほか)は未完の大器のまま消えていったが、元同僚のテイショーン・プリンスは当時、選手たちはみな、カーメロ・アンソニーを指名すると思っていたと明かしている。
2003年のドラフトは1位でレブロン(当時クリーブランド・キャバリアーズ)が指名され、続く2位ではセルビア出身のビッグマンであるミリチッチをピストンズが指名した。続く3位はカーメロ(当時デンバー・ナゲッツ)、4位にクリス・ボッシュ(当時トロント・ラプターズ)、5位でドゥエイン・ウェイド(当時マイアミ・ヒート)と、のちのスーパースターたちがズラリと並ぶ。
チャンシー・ビラップス、リチャード・ハミルトン、ベン・ウォーレスを擁し、ドラフト1か月前のプレーオフでイースタン・カンファレンス決勝まで勝ち進んだピストンズは、同年の全米王者シラキュース大で1年生にして平均22.2点、10.0リバウンドを記録していたカーメロを指名するチャンスがあった。
しかしミリチッチを指名したことは、在籍選手たちにとっても驚きだったようだ。当時ルーキーイヤーを終えたばかりだったプリンスも例外ではなく、ポッドキャスト番組『The Knuckleheads』に出演した際、「ショックだった」と胸中を明かしている。
「選手たちはみんな、メロ(カーメロ)を獲得すると思っていた。ダーコ(ミリチッチ)がデトロイトにワークアウトに来たのは知っていたけど、私たちはダーコのプレーを見たことがなかったからね。もちろんメロのことは見たことがあった。だからドラフトのあと、ダーコは『指名を受けられるなんてラッキーだったな』と思ったよ。フロントは、私を将来のスモールフォワードとして見立てていたのだろう。だからダーコにチャンスを与えることにしたんだ」
翌2003-04シーズンにピストンズはラシード・ウォーレスも加えた陣容でリーグ優勝を成し遂げるが、ミリチッチは主力ではなく、大成することなく06年2月にトレードでオーランド・マジックへ放出。その後もメンフィス・グリズリーズ、ニューヨーク・ニックス、ミネソタ・ティンバーウルブズ、ボストン・セルティックスと渡り歩き、自己ベストは2010-11シーズンの平均8.8点という平凡な数字に終わった。
司令塔だったビラップスは、カーメロがホストを務めるポッドキャスト番組『7PM in Brooklyn』で、ミリチッチではなくカーメロを獲得していれば「少なくとも3回は優勝できた」とコメント。そして「ブロン(レブロン)は(2010年にマイアミ・ヒートへ行くよりも)もっと早くクリーブランドを去っていただろう」と、ピストンズ王朝がより長く続いたとの見解を述べていた。
もっとも、プリンスはミリチッチに対して同情の念もあるようで、「18歳になったばかりでNBAに入り、最初のヘッドコーチがラリー・ブラウン。タフだよ。私たちはダーコを助けようとした。出場時間を得られるように、コーチングスタッフがポストアップ以外にも学ばせたが、すぐにフラストレーションを抱えた。異国の地に来てのチャレンジは少し荷が重かったかもしれない」と擁護していた。
構成●ダンクシュート編集部
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「選手たちはみんな、メロ(カーメロ)を獲得すると思っていた。ダーコ(ミリチッチ)がデトロイトにワークアウトに来たのは知っていたけど、私たちはダーコのプレーを見たことがなかったからね。もちろんメロのことは見たことがあった。だからドラフトのあと、ダーコは『指名を受けられるなんてラッキーだったな』と思ったよ。フロントは、私を将来のスモールフォワードとして見立てていたのだろう。だからダーコにチャンスを与えることにしたんだ」
翌2003-04シーズンにピストンズはラシード・ウォーレスも加えた陣容でリーグ優勝を成し遂げるが、ミリチッチは主力ではなく、大成することなく06年2月にトレードでオーランド・マジックへ放出。その後もメンフィス・グリズリーズ、ニューヨーク・ニックス、ミネソタ・ティンバーウルブズ、ボストン・セルティックスと渡り歩き、自己ベストは2010-11シーズンの平均8.8点という平凡な数字に終わった。
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もっとも、プリンスはミリチッチに対して同情の念もあるようで、「18歳になったばかりでNBAに入り、最初のヘッドコーチがラリー・ブラウン。タフだよ。私たちはダーコを助けようとした。出場時間を得られるように、コーチングスタッフがポストアップ以外にも学ばせたが、すぐにフラストレーションを抱えた。異国の地に来てのチャレンジは少し荷が重かったかもしれない」と擁護していた。
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