2010年代のロサンゼルス・クリッパーズは、司令塔クリス・ポールのパスからビッグマンのブレイク・グリフィンが豪快なダンクを次々と叩き込む様から、"ロブシティ"と呼ばれた。しかし、1990年代のシアトルのゲイリー・ペイトンとショーン・ケンプのコンビは、ロブシティの元祖と言える存在だった。
現在のオクラホマシティ・サンダーは、1967年から2008年までシアトルを本拠地としており、当時のチーム名はシアトル・スーパーソニックスだった。
208㎝のパワーフォワードのケンプは89年、193㎝のポイントガードのペイトンは90年のドラフトでソニックスに入団し、この2人を中心にチームは91年から7年連続でプレーオフに進出。1995-96シーズンには当時の球団最高成績となる64勝をあげ、NBAファイナルにも進出した。
5月下旬、元NBA選手のジェフ・ティーグがホストを務める『Club 520 podcast』に出演したペイトンは、ケンプとのコンビについて次のように語った。
「クリス・ポールたちを否定するつもりはないけど、最初のロブシティは俺たちだった。ショーンと俺が最初にそういうプレーをしたんだ。7年間彼とプレーできたのは本当に素晴らしかったよ」
ソニックスのダイナミックデュオとして君臨していたペイトン&ケンプだが、このコンビは7年で解散を迎える。ケンプは私生活でアルコールとドラッグの問題を抱えるようになり、さらに96年のオフにチームがジム・マッキルベインと7年3300万ドルという大型契約を結んだことに反発。フロントとの関係が悪化した結果、96-97シーズン終了後に三角トレードでクリーブランド・キャバリアーズへ放出され、以降、彼のキャリアは下降線を辿っていった。
一方のペイトンはソニックスでプレーを続けたが、2002-03シーズンの途中にミルウォーキー・バックスにトレード。新天地でも高いレベルのプレーを続け、2006年にマイアミ・ヒートで優勝を経験し、13年にはバスケットボール殿堂入りを果たした。
ペイトンは今でもケンプとの別れを後悔しているという。
「ショーンがクリーブランドに行って、太っていくのを見た。あれは俺のせいだと思った。もっとしっかりオーナー陣に掛け合って、正しい判断をさせるべきだったよ。あれは俺にとって、本当に辛いことだった。
俺はいつもショーンにこう言ってる。『もしお互いに自惚れなんてせずに、彼が俺ともっと長く一緒にやっていたら、今頃(ケンプは)絶対に殿堂入りしてた。もっと大きな王朝を築けてたさ。俺たちはNBA史上最高のデュオのひとつだった』ってね」
そして、ケンプ自身もシアトルを離れたことがNBAキャリアで最大の失敗だったと認めている。昨年ポッドキャスト番組『All the Smoke』でケンプは、当時ペイトンとともにフロントと話し合いをしていれば、状況は変わっていたかもしれないと述べた。
「もし戻れるなら、俺たちの関係を壊すことはなかった。今になって思うのは、『(チーム)オフィスに2人で行って、ちゃんと話し合ってこのクソみたいな状況を何とかすべきだった』ってことさ。いちいち怒ったり、イライラしてる場合じゃなかった」
ペイトン&ケンプはお互い望まない形でのコンビ解散となったが、2人の息の合った連携プレーは、今もファンの記憶の中で鮮明に輝き続けている。
構成●ダンクシュート編集部
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5月下旬、元NBA選手のジェフ・ティーグがホストを務める『Club 520 podcast』に出演したペイトンは、ケンプとのコンビについて次のように語った。
「クリス・ポールたちを否定するつもりはないけど、最初のロブシティは俺たちだった。ショーンと俺が最初にそういうプレーをしたんだ。7年間彼とプレーできたのは本当に素晴らしかったよ」
ソニックスのダイナミックデュオとして君臨していたペイトン&ケンプだが、このコンビは7年で解散を迎える。ケンプは私生活でアルコールとドラッグの問題を抱えるようになり、さらに96年のオフにチームがジム・マッキルベインと7年3300万ドルという大型契約を結んだことに反発。フロントとの関係が悪化した結果、96-97シーズン終了後に三角トレードでクリーブランド・キャバリアーズへ放出され、以降、彼のキャリアは下降線を辿っていった。
一方のペイトンはソニックスでプレーを続けたが、2002-03シーズンの途中にミルウォーキー・バックスにトレード。新天地でも高いレベルのプレーを続け、2006年にマイアミ・ヒートで優勝を経験し、13年にはバスケットボール殿堂入りを果たした。
ペイトンは今でもケンプとの別れを後悔しているという。
「ショーンがクリーブランドに行って、太っていくのを見た。あれは俺のせいだと思った。もっとしっかりオーナー陣に掛け合って、正しい判断をさせるべきだったよ。あれは俺にとって、本当に辛いことだった。
俺はいつもショーンにこう言ってる。『もしお互いに自惚れなんてせずに、彼が俺ともっと長く一緒にやっていたら、今頃(ケンプは)絶対に殿堂入りしてた。もっと大きな王朝を築けてたさ。俺たちはNBA史上最高のデュオのひとつだった』ってね」
そして、ケンプ自身もシアトルを離れたことがNBAキャリアで最大の失敗だったと認めている。昨年ポッドキャスト番組『All the Smoke』でケンプは、当時ペイトンとともにフロントと話し合いをしていれば、状況は変わっていたかもしれないと述べた。
「もし戻れるなら、俺たちの関係を壊すことはなかった。今になって思うのは、『(チーム)オフィスに2人で行って、ちゃんと話し合ってこのクソみたいな状況を何とかすべきだった』ってことさ。いちいち怒ったり、イライラしてる場合じゃなかった」
ペイトン&ケンプはお互い望まない形でのコンビ解散となったが、2人の息の合った連携プレーは、今もファンの記憶の中で鮮明に輝き続けている。
構成●ダンクシュート編集部
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