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NBA

「彼はカメレオンだ」欧州で6か国7クラブを渡り歩き、NBAの優勝請負人となったPJ・タッカーの“這い上がり”の歴史<DUNKSHOOT>

小川由紀子

2022.05.20

 相手の得点源を封じ、オフェンスでは3ポイントシュートを決められる、そんな選手を「3&D」と呼び、タッカーもその筆頭に挙げられているが、それはこの世界で生き抜くために懸命にもがいた結果ついてきたものだと、本人は以前のインタビューで話している。

「若い頃に、『僕がやりたいのはディフェンスです!』という選手は多くない。みんなオフェンスをやりたがるものさ。でも自分はもともとディフェンスはできた方だったから、これを自分の武器にしようと思った。それから外のシュート磨いたんだ」

 ヒューストン・ロケッツ時代に確立した、コーナースリーの名手の称号。これは、ジェームズ・ハーデン(フィラデルフィア・76ers)やクリス・ポール(フェニックス・サンズ)にスペースを与えるための策だったという。

 タッカーは2006年のドラフトでトロント・ラプターズから全体35位で指名され、1位指名のアンドレア・バルニャーニとともに同球団からデビュー。しかしルーキーイヤーは17試合、時間にして83分しかコートに立てずに終わった。
 
 彼は即座に新天地を目指し、イスラエルに渡ることを決めたが、この決断は、人々の予想に反して「ものすごく簡単なこと」だったという。「成長したい気持ちの一心で、そのためには何よりプレータイムが欲しかったから、思い返してもベストな決断だった」と当時を振り返っている。

 その後は5年間で6か国7クラブ(イスラエル、ウクライナ、ギリシャ、イタリア、プエルトリコ、ドイツ)を渡り歩くジャーニーマンとなるのだが、環境やプレースタイルの違いに順応するのもまったく苦痛ではなかったというから、スポールストラHCの言葉通り、彼は根っからのカメレオン体質であるようだ。

 イスラエルとドイツでは国内タイトルを獲得。MVPにも選出と、リーグを代表する選手となったが、この経験が彼を大きく成長させた。

 欧州クラブに招かれるアメリカ人、とりわけNBA経験のある選手は、入団後は即戦力として絶大なインパクトを与えることを期待される。タッカーが欧州に渡った15年前は、今よりアメリカ人選手は格段に少なかったから、注目度も期待度も現在とは比べ物にならないくらいに大きかっただろう。

 戦術の上でもアイソレーションされることが多く、自ら得点し、勝利という結果を出すという責任を負ってプレーすること、そしてチームをコートの内外で引っ張るというリーダーシップを、タッカーはこの欧州時代に学んだ。
 
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