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NBA

ジェリー・ウエスト——田舎の少年がレイカーズのエース、NBAロゴのモデルとなるまで【レジェンド列伝・前編】<DUNKSHOOT>

出野哲也

2022.10.21

 高校でも当初は控え選手だったが、最上級生になって身長が6インチ伸びると、毎試合30点以上を叩き出すようになった。地元のウエストバージニア大に進み、59年のNCAAトーナメントに出場。決勝戦でカリフォルニア大に敗れたものの、ウエスト自身は5試合で160点を稼ぎ大会最優秀選手に選ばれた。

 翌60年にはローマ五輪の代表にもなった。ウエストのほかにもオスカー・ロバートソン、ウォルト・ベラミー、ジェリー・ルーカスら、のちにNBAで活躍するスター選手が揃った最強チームで手にした金メダルは、彼の人生で最高の思い出になった。

 同年のドラフトでは、ロバートソンに次ぐ2位指名でレイカーズに入団。ミネアポリスからロサンゼルスへの移転が決まっていたレイカーズは、新ヘッドコーチとしてウエストの恩師、ウエストバージニア大のフレッド・シャウスを招聘。万全の体制を整えた上でウエストを迎え入れた。
 
 ただ、正真正銘の田舎育ちで、性格も外交的ではなかったウエストにとって、大都会のロサンゼルスはカルチャーショックの連続だった。早口で訛りも強く、チームメイトですら聞き取れないこともあり、それを気にするあまり口数も少なくなった。シャウスの回想によれば、2週間にわたって一言もしゃべらなかったこともあったそうだ。

 けれども、一旦コートに足を踏み出せば彼のプレーは誰よりも雄弁だった。1年目はシャウスの方針もあって出場時間が抑えられ、平均17.6点にとどまったが、2年目の61-62シーズンは30.8点まで急上昇。当時MIP(最優秀躍進選手賞)があれば間違いなく受賞していただろう。長い腕を生かしたディフェンスでも高い評価を得た。

「どれだけいい成績でも満足したことはない。打ったシュートは1本残らず決めなければ気が済まなかった」と言う並外れた向上心と、自分だけでなく他にも最大限の努力を求める厳しい姿勢が、成長の源だった。

 重要な場面では進んでシュートを放ち、チーム・アナウンサーのチック・ハーンから“ミスター・クラッチ”の異名を奉られた。からかい半分につけられた最初のニックネームに代わって、この新しい呼び名が彼の代名詞となった。(後編に続く)

文●出野哲也
※『ダンクシュート』2009年8月号原稿に加筆・修正
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