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NBA

クリス・マリン——日々の努力と一級品のバスケセンスでスターになった“西海岸のラリー・バード”【レジェンド列伝・前編】<DUNKSHOOT>

出野哲也

2022.09.14

マリンは「シュートは練習すればするだけ上手くなる」との信念から日々練習を重ね、1985年にNBA入りを果たした。(C)Getty Images

マリンは「シュートは練習すればするだけ上手くなる」との信念から日々練習を重ね、1985年にNBA入りを果たした。(C)Getty Images

■ハブリチェックに憧れたNYでの少年時代

 1992年、 バルセロナ五輪のために結集した初代ドリームチームは、 大学生のクリスチャン・レイトナーを除いて、みなNBAでも選り抜きのスーパースターだった。 その4年後に選出された “NBA史上最高の50人”のリストに、11人中10人の名前があったのも不思議はない。

 そのリストからたった一人こぼれてしまったのは、クリス・マリンだった。今、改めて彼のキャリアを眺めると、確かに他の10人に比べれば見劣りするかもしれない。だが、ドリームチームに選ばれた頃のマリンは「西海岸のラリー・バード」と呼ばれた、NBAでも一、二を争うスモールフォワードであり、おそらくリーグ最高のシューターだった。そして彼が栄光を掴むまでの道程は、他の10人の誰よりも過酷なものだったのである。

 ニューヨークはブルックリンに生まれたマリンは、バスケットボール好きの家庭に育ったこともあって、幼いころから自然にボールに親しんでいた。近所の仲間たちと同じように、ニューヨーク・ニックスのスター選手ウォルト・フレイジャーやアール・モンローのムーブをいつも真似していたが、本当に憧れていたのはボストン・セルティックスのジョン・ハブリチェックだった。

 プロになってからも背番号17をつけていたのも、ハブリチェックの番号だったからである。白人だったマリンには、コート上でも私生活でも派手だったニックスの黒人スターたちより、質実剛健を絵に描いたセルティックスの白人選手のほうが、より親近感があったのかもしれない。
 
 実際、一見ひ弱そうな白人少年のマリンがブレーグラウンドに姿を見せると、黒人の少年たちから「こいつはいったい何しに来た?」と言いたげな視線を送られるのが常だった。 しかし、ひとたびボールを持たせれば、マリンの鮮やかなプレーはみなを驚かせ、 仲間として受け入れられた。

 高校時代にはオールアメリカンに選ばれ、多くの有力校から勧誘された中から、地元の名門校セントジョンズ大を選択。 「身長や体型は変えられなくても、シュートは練習すればするだけ上手くなる」との信念から、文字通り雨の日も雪の日も欠かさず体育館にこもってシュート練習を続けた。

 その努力が実り、名物解説者のディック・バイタルから「絹のように滑らかなシューティングタッチの持ち主。30年間の解説者生活で、彼こそ最高のシューター」と絶賛されるほどになった。2年後輩のマーク・ジャクソンも、マリンの練習態度に感銘を受け「彼を見ているだけで、偉大な選手とはどういうものかがわかった」と語っている。

 84年夏にはロサンゼルス五輪の代表メンバーに選ばれ、マイケル・ジョーダンやパトリック・ユーイングら、のちのドリームチームの仲間とともに金メダルを獲得。 平均11.6点は、17.1点をあげたジョーダンに次いでチーム2位だった。
 
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