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NBA

ドクターJ&マローン――1960~70年代に存在したNBAのライバルリーグ、ABAスターの共闘物語【デュオ列伝|前編】<DUNKSHOOT>

出野哲也

2022.11.28

 73年にニューヨーク(現ブルックリン)・ネッツに移籍し、同シーズンから3年連続でABAのリーグMVPを獲得。74年、76年とネッツを2度のABAチャンピオンに導き、前述のように初開催だった76年のABAオールスター・スラムダンク・コンテストでは、フリースローラインからジャンプして決めるレーンアップを成功させ、大喝采を浴びた。

 ドクターJは人格者としても知られ、スーバースターにありがちな自己中心的な態度とは無縁だった。名アナウンサーのマーブ・アルバートは、「ジュリアスはどんな試合でも一切手を抜かなかった。観客の誰もが、彼を目当てに来ていることを知っていたからだ。報道陣の質問にも、いつも最後まで残って答えてくれた」と感嘆を込めて回想している。

「ドク (ドクターJ) ほどコートの内外両面でプロバスケットボールに貢献した男はいない。ただの“フランチャイズビルダー”じゃない。彼はリーグそのものだったんだ」(ネッツのケビン・ロカリーHC)。
 
■高卒選手のパイオニア、モーゼス・マローン

 ドクターJがスクワイアーズで活躍していた頃、同じバージニアの地にとてつもない才能を持った高校生がいた。所属するピーターズバーグ高校を50連勝と2度の州チャンピオンに導いたその男こそ、モーゼス・マローンであった。

 少なくとも300を超える大学から勧誘され、その中からメリーランド大を選んだのだが、わずか2日登校しただけで、ABAのユタ・スターズから5年間300万ドルの契約をオファーされ入団。プロバスケットボール史上初めて、高校から直接プロ入りを果たした選手となった。マローンはKG、コビー、レブロン・ジェームズと続く高卒プロ選手の先駆者だったのだ。

 彼の最大の武器は、卓越したリバウンドカだった。身長はセンターとしては決して高くはなく、ジャンプ力も大してあったわけではないが、ビッグマン離れしたクイックネスがあり、なおかつボールへの執念は並外れていた。大学バスケットボール界の名物解説者ディック・バイタルは、マローンの高校時代をこう回想する。

「他の選手たちが昼食をとっている間も、モーゼスは1人でリバウンドとティップインの練習をしていた。なぜその練習をしているのか聞いたら、彼はこう答えたよ。『だって点を取るためには、まず最初にボールを手に入れなきゃいけないだろ?』」

 そんな猛練習の甲斐あって、ことオフェンシブ・リバウンドにおいてマローンは他の追随を許さないほどの存在になった。ボールに絡めば絡むほどファウルを受ける回数も増え、フリースローで得点を重ねる機会も多くなった。平均18.8点、14.6リバウンドと高卒選手とは思えないほどの好成績を残し、新人ながらオールスターにも選ばれた。
(後編に続く)

文●出野哲也

※『ダンクシュート』2006年5月号掲載原稿に加筆・修正。
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