翌68年1月20日、エルビン・ヘイズを擁するヒューストン大との“世紀の決戦”に敗れるまで47連勝。この年も1敗だけで、トーナメント準決勝ではヒューストンに32点差の圧勝でシーズンの借りを返すと、決勝戦はノースカロライナ大を当時の新記録となる23点差で退け、2連覇を飾った。さらに69年も1敗のみで3連覇。アルシンダーは4年間で平均26.4点、16.5リバウンド、在学中は88勝2敗。NBAでは史上最多の通算3万8387点、6度のMVPに輝き、バックスとレイカーズで6回頂点に立った。アレンも71年に再びジャバー(71年に改名)のチームメイトとなり、バックスで優勝を経験している。
アルシンダーの卒業後はシドニー・ウィックスがエースの座を受け継ぎ、さらに71年にはビル・ウォルトンが入学。潜在能力に関してはジャバーにも引けを取らないウォルトンを柱とし、ヘンリー・ビビー、キース(のちにジャマールと改名)・ウィルクスらが脇を固めた71-72シーズンは、またもシーズン全勝。続く73年も全勝、30試合中26試合が2桁得点差での勝利と圧倒的な強さを誇った。トーナメント決勝ではウォルトンが44得点、放った22本のシュートのうち、外したのは1本だけというトーナメント史に残る超絶パフォーマンスを演じ、7連覇を果たした。
73-74シーズンも開幕から13連勝をマークしたが、ノートルダム大に残り3分から11点差を逆転され、連勝は88でストップ。トーナメントでも準決勝でノースカロライナ大に屈し、大会での連勝も38で途切れる。連勝が始まる前、最後に敗れた相手もノートルダムだった。ウォルトンは同年のドラフト1位でウィックスがいるブレイザーズに入団し、77年に優勝、78年にMVPを受賞。ウォリアーズに入団したウィルクスも75年に優勝を経験し、その2年後にはレイカーズへ移籍。先輩のジャバーとともに、ショータイム・バスケットの一翼を担った。
ウッデンの最後のシーズンとなった75年は、デーブ・メイヤーズ、マーケス・ジョンソン(ウッデン賞の第1回受賞者)らの活躍で覇権を奪回し、有終の美を飾った。ラリー・ブラウンがチームを率いた79-80シーズンはキキ・バンダウェイらを擁して準優勝しながらも、不正な選手勧誘があったとして記録は抹消となる。82年には16年ぶりのトーナメント不出場、以後7年間では2回の出場にとどまるなど苦戦を強いられた。
アルシンダーの卒業後はシドニー・ウィックスがエースの座を受け継ぎ、さらに71年にはビル・ウォルトンが入学。潜在能力に関してはジャバーにも引けを取らないウォルトンを柱とし、ヘンリー・ビビー、キース(のちにジャマールと改名)・ウィルクスらが脇を固めた71-72シーズンは、またもシーズン全勝。続く73年も全勝、30試合中26試合が2桁得点差での勝利と圧倒的な強さを誇った。トーナメント決勝ではウォルトンが44得点、放った22本のシュートのうち、外したのは1本だけというトーナメント史に残る超絶パフォーマンスを演じ、7連覇を果たした。
73-74シーズンも開幕から13連勝をマークしたが、ノートルダム大に残り3分から11点差を逆転され、連勝は88でストップ。トーナメントでも準決勝でノースカロライナ大に屈し、大会での連勝も38で途切れる。連勝が始まる前、最後に敗れた相手もノートルダムだった。ウォルトンは同年のドラフト1位でウィックスがいるブレイザーズに入団し、77年に優勝、78年にMVPを受賞。ウォリアーズに入団したウィルクスも75年に優勝を経験し、その2年後にはレイカーズへ移籍。先輩のジャバーとともに、ショータイム・バスケットの一翼を担った。
ウッデンの最後のシーズンとなった75年は、デーブ・メイヤーズ、マーケス・ジョンソン(ウッデン賞の第1回受賞者)らの活躍で覇権を奪回し、有終の美を飾った。ラリー・ブラウンがチームを率いた79-80シーズンはキキ・バンダウェイらを擁して準優勝しながらも、不正な選手勧誘があったとして記録は抹消となる。82年には16年ぶりのトーナメント不出場、以後7年間では2回の出場にとどまるなど苦戦を強いられた。