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NBA

【NBAスター悲話】ダンク王としてのし上がるも…ハロルド・マイナーを苦しめた“ベビー・ジョーダン”の称号【前編】

大井成義

2020.02.03

マイナーに、期待とプレッシャーに打ち勝つだけの精神的な強さがあったなら、その後のキャリアはまったく違うものになっていたかもしれない。(C)Getty Images

マイナーに、期待とプレッシャーに打ち勝つだけの精神的な強さがあったなら、その後のキャリアはまったく違うものになっていたかもしれない。(C)Getty Images

■ダンクコンテスト優勝で一躍スターとなったが……

 マイナーはカリフォルニア州ロサンゼルスで最も治安が悪い地域のひとつ、イングルウッドで生まれ育った。高校の頃からその名は地元一帯に響き渡っており、大学のみならずNBA関係者が試合を観に訪れるほどだった。同郷のポール・ピアースは、かつて『ダンクシュート』誌のインタビューで次のように語っている。

「本当の意味で俺にインスピレーションを与えたのは、ハロルド・マイナーだ。彼こそが、成功の可能性を示してくれた人物。俺は彼と同じ町で育った。同じ公園でプレーして、同じリーグでプレーすることになった。彼が俺に与えてくれた影響は計り知れない」

 1989年、USC(サザンカリフォルニア大)に進学すると、噂に違わぬプレーで全米にその名を知らしめた。フレッシュマンからチームのトップスコアラーとして活躍し、レギュラーシーズン平均20.6点を記録する。その後もUSCの得点記録を次々に塗り替え、同校史上最高の選手と謳われた。

 USCは2年連続でNCAAトーナメントに出場し、マイナーはその原動力となった。1991-92シーズンには平均26.3点を記録、シャキール・オニールやアロンゾ・モーニング、クリスチャン・レイトナーらとともにオールアメリカ1stチームに選出され、『スポーツイラストレイテッド』誌が選ぶ全米最優秀選手賞も受賞している。
 
 イングルウッドのプレーグラウンド時代から呼ばれていたニックネーム、“ベビー・ジョーダン”は、またたく間に全国へと広まった。頭を剃り上げ、背番号23を身に付けた若武者は、ジョーダンより多少肉付きがよく体型は似つかなかったものの、その瞬発力や跳躍力は大学生離れしており、サウスポーから繰り出される切れ味鋭いダンクは“ベビー・ジョーダン”と呼ばれるに相応しいものだった。

 マイナーは大学で3年間プレーした後、アーリーエントリーを宣言。1992年のNBAドラフト1巡目12位でヒートから指名を受け、5年730万ドルの契約を結ぶ。ルーキーイヤーの1992-93シーズンは、レギュラーシーズンこそパッとしなかったが、ユタで行なわれたオールスターのスラムダンク・コンテストで優勝を飾り、いきなりブレイクを果たすことになる。

 その前年(1992年)と前々年(1991年)のコンテストでは、セドリック・セバロスとディー・ブラウンがそれぞれ目隠しダンクというトリッキーなダンクで優勝していた。その反動もあってか、マイナーが披露した全身を躍動させての桁外れにパワフルで豪快なダンクは実に新鮮であり、観客を熱狂の渦に巻き込んだのだった。
 

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