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NBA

【NBAスター悲話】ダンク王としてのし上がるも…ハロルド・マイナーを苦しめた“ベビー・ジョーダン”の称号【前編】

大井成義

2020.02.03

マイナーは大学で3年間プレーした後、アーリーエントリーを宣言。1992年のNBAドラフト1巡目12位でヒートから指名を受け、5年730万ドルの契約を結んだ。(C)Getty Images

マイナーは大学で3年間プレーした後、アーリーエントリーを宣言。1992年のNBAドラフト1巡目12位でヒートから指名を受け、5年730万ドルの契約を結んだ。(C)Getty Images

 このコンテストをきっかけに、“ベビー・ジョーダン”の名は一躍ポピュラーなものになった。マイナー人気を当て込んだナイキは、スラムダンク・コンテスト以外にほとんど実績のなかった彼をCMに起用し、1400万ドルという新人としては当時破格の契約を結んだ。近い将来、マイナーはリーグを代表する選手の1人になるだろう、そんな空気が形成されつつあった。

 だが、マイナーはその後も並以下の成績しか残せなかった。オフェンスには非凡なものを持ち、時おり爆発的なダンクで観客を沸かせたりするものの、目も当てられないほどお粗末なディフェンスと安定しないアウトサイドシュートが、彼のプレーイングタイムを制限した。

 そして何より、思うようにならないヒザの故障が彼を徹底的に苦しめた。大学時代から右ヒザにトラブルを抱えており、1年目のオフにヒザの手術を受けたが、痛みを取り除くことはできなかった。2014年に『スポーツイラストレイテッド』のストーリーで、マイナーは回想している。「むちゃくちゃフラストレーションが溜まったよ。時々、ホテルの部屋や自宅に戻って、ただ泣いていた」。

 1995年、マイナーは再びスラムダンク・コンテストに出場し、ジョーダン、ドミニクに次いで史上3人目(当時)となる2度目の優勝を飾る。前年度のチャンピオン、アイザイア・ライダーを大差で下しての優勝で、それによりNBAにおける若手№1ダンカーの地位は不動のものとなった。
 
 しかし、いくら見事なダンクを決めることができても、肝心の試合では活路を見いだすことができず、目の前の壁をなかなか破ることができなかった。そのシーズンは、抱えていたヒザの故障が悪化したこともあって出場は45試合に留まり、プレーイングタイムも20分を割り込んだ。

 3シーズンをヒートで過ごした後、1995年6月にドラフト2巡目指名権との交換でキャバリアーズにトレード。1995-96シーズンの直前にラプターズへトレードされるが、その4日後、相手選手の身体検査結果に問題があることがわかり、トレードは撤回される。

 心機一転キャブズで再起を図るべく奮闘するも、2度目のヒザの手術を強いられ、出場試合数はわずか19試合、平均出場時間7.2分、平均3.2点。ほんの1年前に2度目のスラムダンク・コンテスト優勝で手にした栄光は、完全に地に堕ちてしまっていた。

 1996年8月、キャブズはマイナーを解雇。その後ラプターズのトレーニングキャンプに参加、かつてないほど体調は良かったが、ウェットスポットで足を滑らせてしまい再びヒザを痛め、2週間後にリリースされる。こうしてマイナーの短いNBA生活は、呆気なく終わりを告げた。2度のダンク王、過度の期待によるプレッシャー、そしてヒザの故障。それがすべてだった。この時マイナー25歳。(後編へ続く)

文●大井成義

※『ダンクシュート』2004年3月号掲載原稿に加筆・修正。

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