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海外テニス

「東京オリンピックに出たい!」全米オープンダブルスに出場した柴原瑛菜の夢とは?

内田暁

2019.08.31

全米オープンダブルス1回戦に出場した柴原瑛菜。写真:山崎賢人(スマッシュ写真部)

全米オープンダブルス1回戦に出場した柴原瑛菜。写真:山崎賢人(スマッシュ写真部)

 2016年のこの時期に、Ena Shibaharaなる選手の紹介記事を、スマッシュのFacebookに掲載した。

 柴原瑛菜と漢字表記されるUSオープンダブルス出場者は、両親は日本人、生まれ育ちはアメリカ・カリフォルニア州の18歳(当時)。全米選手権18歳以下で優勝し大会出場権を獲得した彼女は、本戦は初戦で破れるも、ジュニア部門では頂点まで駆け上がった。

 その後、柴原はカリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)に進学し、初年からチームのエースとして単複で活躍する。そして2年目を終えた後、満を持してプロへと転向。それは進学当時から決めていた、言わばキャリアの規定路線でもある。「まだ身体が小さかったので、プロに行くのは早いと思った。大学でフィジカルを鍛えたかった」というのが、その経路を選んだ理由だ。

 8歳の頃から全米テニス協会(USTA)の強化選手に選ばれた彼女のキャリアには、生まれ育ったカリフォルニアの地が、常に大きな影響を及ぼしてきた。13歳まで師事したのは、シングルス最高ランキング14位、ダブルスは6位のキンバリー・ポー。彼女の実家にほど近い、ロサンゼルス出身の名プレーヤーである。

 幼い頃から憧れた選手は、同郷の英雄であるピート・サンプラス。そのサンプラスを「ロールモデル(お手本)」とし、サーブ&ボレーに磨きを掛けUCLAに進学した彼女を、テニス部コーチとして指導したのは、ピート・サンプラスの姉のステラ・サンプラスだった。
 そのようにカリフォルニアの土壌で育った柴原ではあるが、両親の故郷であり、祖父母が暮らす日本に対する郷愁の情も、常に心にあったという。

 これから先もアメリカの旗の下でプレーするのか、あるいは日本国籍を選ぶのか――?

 それは高校生の頃から、彼女が抱いていた悩み。全米オープンジュニアを制した3年前に問うた際も、「ものすごく色々と考えています」と、少し困ったような笑みをこぼしていた。


 そして、22歳の誕生日を7カ月後に控えた今年7月、国際大会出場時の国籍表記を、日本へと変更する。その理由は、「色々ありますが、まずは東京のオリンピックに出たいから。一番の理由は、おじいちゃんとおばあちゃんが東京に住んでいるので、頑張れば2人の前でオリンピックでプレーできるかなって……」

 最近はロサンゼルスを訪れる機会も減った祖父母に、東京で晴れ姿を見せたい――それが最大の夢なのだと、彼女は真っすぐに言った。

 この約1年で、ダブルスランキングを1000位代から100位圏内にまで上げてきた柴原は、7月のサンノゼ大会で青山修子と組んで準優勝し、今回の全米オープン出場を確実にした。自ら切望して実現したこのペアでは、「すごく楽しかったし、私のレベルも上がった」と言う。特に自身の成長を感じられたのが、ネット際での動き。

「青山さんの動きを見てイメージを作り、それを真似したら、私も前より速く動けるようになった。青山さんが届くなら、私も届くかなって……」

 青山のプレーを見ることで、自分で築いていた限界値を一つ壊し、文字通りプレーの幅を広げることができた。

 一段回レベルの上がったそのプレーを、柴原は3年ぶりの出場となる全米オープンでも発揮する。第1セットは柴原のボレーが要所で決まり、6-2で相手を圧倒。しかし第2セット以降は、相手も対策を練ってくる。第3セットは一進一退の攻防となるが、最後に突き放され初勝利はならなかった。
 
 それでもこの一戦が、柴原のキャリアにとって新たな始まりになるのは間違いない。

 ニューヨークの全米オープンで踏み出した一歩は、これから広島、そして大阪で開催される、WTAツアー2大会へと続いていく。


取材・文●内田暁

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