最後のポイントが決まった時、彼女はその場にしゃがみ込み、コートに付いた両手のひらで、勝利の手触りを確かめているかのようだった。
「あの時は、泣きそうだった。でもそれより、本当にうれしかったので……なんだろう、"I deserve it"という気持ちでした」
それが、全米オープン予選決勝で勝利した瞬間、柴原瑛菜の胸を占めた思いだったという。
「I deserve it」は日本語に直訳すれば、「私はこの勝利に相応しい」となるだろうか。ただそのような堅苦しい言いまわしは、彼女の口調や表情とはあまり重ならない。ここに至るまでに歩んだ道を振り返り、柔らかな誇りと達成感を覚えるかのような、明るい響きがあった。
ダブルスで最高世界4位に達した柴原は、"ダブルスのスペシャリスト"と目されがちだったかもしれない。ただ本人の胸には常に、シングルスでも活躍したいとの想いが、熾火のように熱を放っていたという。
実は柴原は以前にも、全米オープンでシングルスを戦ったことがある。それは、10年前のジュニア部門。主催者推薦枠での出場だった。カリフォルニアに生まれ米国籍も持つ当時16歳の柴原は、USTA(全米テニス協会)の全面サポートを受ける、国内トップジュニアだった。
その2年後の2016年、柴原は全米オープンジュニア部門の、ダブルスで頂点に立つ。そのタイトルを手土産に、名門UCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)に進学。2シーズン単複でエースとして活躍した後、休学してプロ転向した。
そして2019年、柴原は「憧れ」の青山修子に猛アプローチをかけてペア結成。直後からWTAツアーを主戦場とし、次々に結果を出した。
「青山さんと出会い、本当に結果が出て。WTAツアーを回れるのはワクワクする雰囲気だったので、その勢いに乗ってダブルスで頑張っていくようになって」
選手登録の国籍を日本にしたのも、この当時。東京オリンピック出場という明確な目標も掲げ、ダブルス選手として邁進した。
そうして東京オリンピック後、満を持してシングルスにも挑戦。ただ、思うようにランキングは上がらない。その一方でダブルスでは、2023年1月の全豪オープンで決勝進出を果たした。
「シングルスでは結果が出なかった中で、去年、青山さんと全豪で決勝まで行って、本当にグランドスラムで優勝したいという気持ちが強くなったんです。それで(単複)両方やろうと思ったんですが、スケジュールを組むのが難しくなって……」
当時の柴原は、ダブルスはトップ20ながら、シングルスは500位台。単複で出られる大会のグレードに大きな乖離がある状態では、両立は困難だった。
だからこそ昨年末、彼女は、覚悟を決める。
「あの時は、泣きそうだった。でもそれより、本当にうれしかったので……なんだろう、"I deserve it"という気持ちでした」
それが、全米オープン予選決勝で勝利した瞬間、柴原瑛菜の胸を占めた思いだったという。
「I deserve it」は日本語に直訳すれば、「私はこの勝利に相応しい」となるだろうか。ただそのような堅苦しい言いまわしは、彼女の口調や表情とはあまり重ならない。ここに至るまでに歩んだ道を振り返り、柔らかな誇りと達成感を覚えるかのような、明るい響きがあった。
ダブルスで最高世界4位に達した柴原は、"ダブルスのスペシャリスト"と目されがちだったかもしれない。ただ本人の胸には常に、シングルスでも活躍したいとの想いが、熾火のように熱を放っていたという。
実は柴原は以前にも、全米オープンでシングルスを戦ったことがある。それは、10年前のジュニア部門。主催者推薦枠での出場だった。カリフォルニアに生まれ米国籍も持つ当時16歳の柴原は、USTA(全米テニス協会)の全面サポートを受ける、国内トップジュニアだった。
その2年後の2016年、柴原は全米オープンジュニア部門の、ダブルスで頂点に立つ。そのタイトルを手土産に、名門UCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)に進学。2シーズン単複でエースとして活躍した後、休学してプロ転向した。
そして2019年、柴原は「憧れ」の青山修子に猛アプローチをかけてペア結成。直後からWTAツアーを主戦場とし、次々に結果を出した。
「青山さんと出会い、本当に結果が出て。WTAツアーを回れるのはワクワクする雰囲気だったので、その勢いに乗ってダブルスで頑張っていくようになって」
選手登録の国籍を日本にしたのも、この当時。東京オリンピック出場という明確な目標も掲げ、ダブルス選手として邁進した。
そうして東京オリンピック後、満を持してシングルスにも挑戦。ただ、思うようにランキングは上がらない。その一方でダブルスでは、2023年1月の全豪オープンで決勝進出を果たした。
「シングルスでは結果が出なかった中で、去年、青山さんと全豪で決勝まで行って、本当にグランドスラムで優勝したいという気持ちが強くなったんです。それで(単複)両方やろうと思ったんですが、スケジュールを組むのが難しくなって……」
当時の柴原は、ダブルスはトップ20ながら、シングルスは500位台。単複で出られる大会のグレードに大きな乖離がある状態では、両立は困難だった。
だからこそ昨年末、彼女は、覚悟を決める。