バレーボール

ミュンヘン五輪金メダリストの横田忠義さんが75歳で死去。男子バレー全盛期を支えた「クロス打ち」の名手

北野正樹

2023.05.17

日本代表で活躍した横田さんの現役時代の姿。写真:山田真市/アフロ

 バレーボールの元男子日本代表で女子代表監督を務め、1972年のミュンヘン五輪で金メダル獲得に貢献した横田忠義さんが5月9日夜、病気のため北海道旭川市内で亡くなっていたことが16日に分かった。75歳。

 横田さんは香川県三豊市出身。県立多度津工業高校から中央大学に進学し、1年の66年に19歳で日本代表に。
 1968年のメキシコ五輪で銀メダルを獲得後、70年に松下電器(現パナソニック)入り。同年代の大古誠司さん、森田淳悟さんとともに「ビッグスリー」と呼ばれ、男子バレー全盛期を人気でも支え、72年のミュンヘン五輪金メダル獲得に貢献した。76年のモントリオール五輪では4位入賞。
 
 78年に現役引退後は、新日本電気(現NECホームエレクトロニクス)の監督を経て、94年には女子日本代表監督に就任した。

 翌年に退任後は、バレーの指導・普及に務め、約10年前から北海道旭川市に居を移していた。
 関係者によると、病気療養中だったという。

 横田さんは、1964年東京五輪後、男子代表監督に就任した松平康隆氏(元日本バレーボール協会名誉会長)が、ミュンヘン五輪での金メダル獲得を目標に立案した「8年計画」を実現するために発掘した1㍍90台の大型若手選手の一人。

 ともに19歳で代表入りし、「世界の大砲」と命名された大古さん、「一人時間差」攻撃を編み出した森田さんに対し、横田さんはパワーあるスパイクやバックアタックなどで「クロス打ち」の名手と呼ばれた。

 中央大、松下電器の先輩で、ミュンヘン五輪でもともに戦った木村憲治・元日本バレーボール協会会長は「半年ほど前に、松下のOB達と会食した際に電話で近況を報告し合ったばかり。病気をして車イス生活だが体調は悪くないと聞いていただけに、驚いています」と語った。

 普段は温厚だが、勝負へのこだわりは誰よりも強かった。木村さんは「世界の大砲と呼ばれた大古の方が剛のイメージを持たれるかもしれませんが、実際には横田の方がコートに入ると、ここで決めるんだという思いは大古より強いように感じた」という。
 
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