現在ゴールデンステイト・ウォリアーズで指揮を執るスティーブ・カーHC(ヘッドコーチ)は、現役時代にシカゴ・ブルズで3度(1996~98)、サンアントニオ・スパーズで2度(99、2003)の優勝を経験した。
185㎝・82kgのガードのNBA通算成績は平均6.0点、1.2リバウンド、1.8アシスト。15年間で2桁得点を記録したシーズンは一度もなかったが、正確無比な3ポイント(キャリア通算45.4%は歴代1位)を武器に、ロールプレーヤーとして活躍した。
しかし、キャリア6年目を終えた93年のオフ、カーはキャリアの岐路に立たされていた。オーランド・マジックから完全FA(フリーエージェント)になるも所属先が決まらず、9月になってようやくブルズと契約。マイケル・ジョーダンと一緒にプレーできることに興奮したが、契約は非保証契約だった。
ところが、開幕を約1か月後に控えた10月6日にジョーダンが突如引退を発表。カーは当然のように落胆したが、その結果ガード陣に空きが生まれたことで、ロスター入りを果たすことになった。
8月上旬、NBAやバスケットボールに関連する話題を取り扱うポッドキャスト番組『Glue Guy Podcast』に出演したカーは、当時を回想。
「彼がいなくなったことで出場時間が増えた。ブルズのほかのメンバーやファンには残念だったかもしれないけど、私にとってはプラスだった」と語った。
ブルズ加入1年目は全82試合に出場し、平均24.8分の出場で8.6点、2.6アシスト、3ポイント成功率41.9%を記録。前年の平均9.3分、2.6点、1.3アシスト、3ポイント成功率23.1%から大きく成績を伸ばした。
カーによると、フィル・ジャクソンHCやスコッティ・ピッペン、ホーレス・グラント、ビル・カートライトといった前期3連覇メンバーに囲まれ、強豪チームで勝利に貢献するプレーヤーへと成長できたことが大きかったという。
そしてジョーダンが95年3月に復帰すると、ブルズは再び勝利を重ね、カーもシューターとして重要な役割を担った。
「もちろん、マイケルが戻ってきて勝ち始めた。偉大なチームで役割を築くのは、誰が主役か分からず混乱する普通のチームよりずっと簡単だと学んだ。シカゴのヒエラルキーとオフェンスシステムが、私をスムースに受け入れてくれた」とカーは話す。
カーのブルズ時代の最大のハイライトは、ユタ・ジャズと対戦した97年のNBAファイナル第6戦。同点で迎えた終盤にジョーダンのパスを受けたカーは冷静にミドルショットを沈め、これがブルズの7年間で5度目の優勝につながった。
スポーツ界を問わず、成功には実力だけでなく運も必要だと言われるが、カーにとってはジョーダンの引退がその後のバスケットボール人生を大きく変える転機となったと言えるだろう。
構成●ダンクシュート編集部
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そしてジョーダンが95年3月に復帰すると、ブルズは再び勝利を重ね、カーもシューターとして重要な役割を担った。
「もちろん、マイケルが戻ってきて勝ち始めた。偉大なチームで役割を築くのは、誰が主役か分からず混乱する普通のチームよりずっと簡単だと学んだ。シカゴのヒエラルキーとオフェンスシステムが、私をスムースに受け入れてくれた」とカーは話す。
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