☆不屈の左腕が現役に別れ
不屈のベテラン左腕・田中健二朗がユニホームを脱ぐ決断を下した。
2007年の選抜で常葉学園菊川を優勝に導くエースとして活躍後、2008年には高校生ドラフト1巡目で横浜ベイスターズに入団。主に中継ぎとしてブルペンを支え続けていたが、23年オフに戦力外通告を受け、翌年にはくふうハヤテベンチャーズ静岡に活躍の場を求めた。NPB復帰を目標に、昨年は防御率1.40、今季も2.08と安定した成績を残していたがオファーはなく、球団からの慰留も断ち切り今季限りでの引退を決意した。
まるで野球の神様も引退を悲しむような大雨の5日に記者会見に臨んだ田中は「今日は足元の悪い中、お集まりいただきありがとうございます。この度、私、田中健二朗は、今シーズンをもちまして現役引退を決めました。18年間応援していただき、本当にありがとうございました」としっかりとした口調で第一声。「今シーズン始まる時、今年NPBに復帰できなければ引退しようと決めてシーズンに臨みました。全力で1試合1試合戦ってきたんですが、6月末の試合で大量失点をしてしまい、そこで引退の二文字が頭を過ぎりました。そして7月31日の移籍の期限を迎え、心の整理がつき、球団の方に引退の報告をさせていただきました」と時系列を辿りながら、自ら下した決断の理由を説明した。
続けて、くふうハヤテでの2年間に「野球につぎ込めた2年間だったなって思います。高校時代から静岡にお世話になり、甲子園優勝を経験させていただき、静岡の皆さんには本当にたくさん応援していただきました。また、ベイスターズを戦力外になって、そのタイミングで静岡に新しい球団ができてオファーをいただき、ほんとに運命だなという風に感じましたし、そこでまた最後にユニホームを脱げるっていうのは、僕にとって最後いい締めくくりだなっていう風に思いました」と縁のある地で野球に身を投じられたことに感謝した。
☆古巣への想いも吐露
またプロ野球選手の礎を築いた横浜への想いも吐露。まず最初に引退の連絡をした木塚敦志氏に「本当に若手の頃、1から投げることを教えていただき、僕はそこでこのチャンス逃したら後がないなっていう風に思いまして。そこから約3~4か月、必死に思うそのことだけをやり続け、その結果そこから活躍できるようになりました。ほんとにその時の木塚さんの教えがなかったら、僕は多分ここまで野球ができなかったと思うし、そこに向き合ってくれた木塚さんには本当に感謝してます」と恩師への感謝を表しつつ「最後まで田中健二朗でいてくれという言葉をいただき、最後まで自分らしく戦っていきたいと思いました」と師匠譲りのファイティングスピリッツを前面に出し、燃え尽きる覚悟を示した。
18年間の野球人生で印象に残っていることは「2016年のクライマックスシリーズのファーストステージでの試合」と未だ語り継がれる牽制で鈴木尚広を刺すビッグプレーを筆頭に、好投を続けたシリーズだと即答。さらに「2021年の手術からの復帰の試合で、僕の名前がコールされてマウンドに向かう時に、ファンの皆さんからの本当に大きい拍手っていうのは、僕も感激しましたし、涙こらえながらマウンドに登ったのを覚えてます」とトミー・ジョン手術から苦しいリハビリを乗り越えてのハマスタ再登板に思いを馳せていた。
不屈のベテラン左腕・田中健二朗がユニホームを脱ぐ決断を下した。
2007年の選抜で常葉学園菊川を優勝に導くエースとして活躍後、2008年には高校生ドラフト1巡目で横浜ベイスターズに入団。主に中継ぎとしてブルペンを支え続けていたが、23年オフに戦力外通告を受け、翌年にはくふうハヤテベンチャーズ静岡に活躍の場を求めた。NPB復帰を目標に、昨年は防御率1.40、今季も2.08と安定した成績を残していたがオファーはなく、球団からの慰留も断ち切り今季限りでの引退を決意した。
まるで野球の神様も引退を悲しむような大雨の5日に記者会見に臨んだ田中は「今日は足元の悪い中、お集まりいただきありがとうございます。この度、私、田中健二朗は、今シーズンをもちまして現役引退を決めました。18年間応援していただき、本当にありがとうございました」としっかりとした口調で第一声。「今シーズン始まる時、今年NPBに復帰できなければ引退しようと決めてシーズンに臨みました。全力で1試合1試合戦ってきたんですが、6月末の試合で大量失点をしてしまい、そこで引退の二文字が頭を過ぎりました。そして7月31日の移籍の期限を迎え、心の整理がつき、球団の方に引退の報告をさせていただきました」と時系列を辿りながら、自ら下した決断の理由を説明した。
続けて、くふうハヤテでの2年間に「野球につぎ込めた2年間だったなって思います。高校時代から静岡にお世話になり、甲子園優勝を経験させていただき、静岡の皆さんには本当にたくさん応援していただきました。また、ベイスターズを戦力外になって、そのタイミングで静岡に新しい球団ができてオファーをいただき、ほんとに運命だなという風に感じましたし、そこでまた最後にユニホームを脱げるっていうのは、僕にとって最後いい締めくくりだなっていう風に思いました」と縁のある地で野球に身を投じられたことに感謝した。
☆古巣への想いも吐露
またプロ野球選手の礎を築いた横浜への想いも吐露。まず最初に引退の連絡をした木塚敦志氏に「本当に若手の頃、1から投げることを教えていただき、僕はそこでこのチャンス逃したら後がないなっていう風に思いまして。そこから約3~4か月、必死に思うそのことだけをやり続け、その結果そこから活躍できるようになりました。ほんとにその時の木塚さんの教えがなかったら、僕は多分ここまで野球ができなかったと思うし、そこに向き合ってくれた木塚さんには本当に感謝してます」と恩師への感謝を表しつつ「最後まで田中健二朗でいてくれという言葉をいただき、最後まで自分らしく戦っていきたいと思いました」と師匠譲りのファイティングスピリッツを前面に出し、燃え尽きる覚悟を示した。
18年間の野球人生で印象に残っていることは「2016年のクライマックスシリーズのファーストステージでの試合」と未だ語り継がれる牽制で鈴木尚広を刺すビッグプレーを筆頭に、好投を続けたシリーズだと即答。さらに「2021年の手術からの復帰の試合で、僕の名前がコールされてマウンドに向かう時に、ファンの皆さんからの本当に大きい拍手っていうのは、僕も感激しましたし、涙こらえながらマウンドに登ったのを覚えてます」とトミー・ジョン手術から苦しいリハビリを乗り越えてのハマスタ再登板に思いを馳せていた。