2月11日、野村克也氏が虚血性心不全により84歳で亡くなった。野球を愛した名伯楽を悼む声はやまないが、各球団は今季の開幕へ向け、スタートを切っている。奇しくも昨年11月、ソフトバンクホークスの甲斐拓也は、野村氏から南海ホークス時代の背番号を捕手として受け継ぎ、「19番」のシーズンをスタートさせた。野村氏本人から譲り渡されたその背景にある意外な共通点とは…。
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11月28日、甲斐拓也(ソフトバンク)の背番号が来季から19に変更されることが発表された。背番号19の"前任者"には、あの野村克也がいる。1977年の退団以来、捕手では誰も着けていなかった番号を、ついにホークスが誇る名捕手が継承することとなる。
"禅譲"の伏線は2年前の2017年。甲斐と野村が初めて会った時のことだという。「次は君に19をつけてもらいたい」と、野村は甲斐に言った。
確かにこの年、甲斐はプロ7年目にしてブレイク。レギュラーに定着して103試合に出場し、ベストナインとゴールデングラブにも選ばれた。
往年の名選手が"自分の背番号"を、まだブレイクしたての若手に託そうとしている。ホークスが誇るスーパーキャッチャー・城島健司にすら、野村はそのような言葉はかけなかったのに。きっと甲斐には、野村にそこまで言わせるだけの何かがあったのだろう。
その一つはおそらく、甲斐の境遇が野村にそっくりなことではないだろうか。
甲斐の両親は、甲斐が2歳の時に離婚。母・小百合さんの女手一つで育てられた。複数の仕事を掛け持ちしながら自分に野球をさせてくれた母に、甲斐は「母ちゃんのことを思えば頑張れた」と深く感謝している。
一方の野村も3歳の時に父が亡くなり、母の手で育てられた。貧乏の中で一生懸命自分を育ててくれた母のために、プロ野球選手として成功したい。それがモチベーションとなってあれだけの大選手になった。
甲斐と野村の共通点はそれにとどまらない。甲斐は10年のドラフトで、大分の楊志館高校からソフトバンクに入団したが、その時の順位は「育成6位」だった。その年ホークスに指名された中ではドン尻だった。入団当初の背番号は「130」。やっと支配下選手に登録されたのも、3年目の13年オフのことだった。
実績からすれば意外だが、野村も1954年に南海ホークスへ入団した時はテスト生だった。しかも選手としてではなく、"カベ"——いわゆる「ブルペンキャッチャー」としての採用で、当然契約金はゼロ。そのためか、1年目のオフにはいきなりクビになりかけている。その時は「クビにされたら南海電車に飛び込んで自殺します」とすら言ってなんとか残留させてもらったほどだ。
2人ともあまり期待された選手ではなかった。プロ入りしてからも苦労の連続。だが、そこから這い上がって球界トップクラスの選手にまで上り詰めた。
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11月28日、甲斐拓也(ソフトバンク)の背番号が来季から19に変更されることが発表された。背番号19の"前任者"には、あの野村克也がいる。1977年の退団以来、捕手では誰も着けていなかった番号を、ついにホークスが誇る名捕手が継承することとなる。
"禅譲"の伏線は2年前の2017年。甲斐と野村が初めて会った時のことだという。「次は君に19をつけてもらいたい」と、野村は甲斐に言った。
確かにこの年、甲斐はプロ7年目にしてブレイク。レギュラーに定着して103試合に出場し、ベストナインとゴールデングラブにも選ばれた。
往年の名選手が"自分の背番号"を、まだブレイクしたての若手に託そうとしている。ホークスが誇るスーパーキャッチャー・城島健司にすら、野村はそのような言葉はかけなかったのに。きっと甲斐には、野村にそこまで言わせるだけの何かがあったのだろう。
その一つはおそらく、甲斐の境遇が野村にそっくりなことではないだろうか。
甲斐の両親は、甲斐が2歳の時に離婚。母・小百合さんの女手一つで育てられた。複数の仕事を掛け持ちしながら自分に野球をさせてくれた母に、甲斐は「母ちゃんのことを思えば頑張れた」と深く感謝している。
一方の野村も3歳の時に父が亡くなり、母の手で育てられた。貧乏の中で一生懸命自分を育ててくれた母のために、プロ野球選手として成功したい。それがモチベーションとなってあれだけの大選手になった。
甲斐と野村の共通点はそれにとどまらない。甲斐は10年のドラフトで、大分の楊志館高校からソフトバンクに入団したが、その時の順位は「育成6位」だった。その年ホークスに指名された中ではドン尻だった。入団当初の背番号は「130」。やっと支配下選手に登録されたのも、3年目の13年オフのことだった。
実績からすれば意外だが、野村も1954年に南海ホークスへ入団した時はテスト生だった。しかも選手としてではなく、"カベ"——いわゆる「ブルペンキャッチャー」としての採用で、当然契約金はゼロ。そのためか、1年目のオフにはいきなりクビになりかけている。その時は「クビにされたら南海電車に飛び込んで自殺します」とすら言ってなんとか残留させてもらったほどだ。
2人ともあまり期待された選手ではなかった。プロ入りしてからも苦労の連続。だが、そこから這い上がって球界トップクラスの選手にまで上り詰めた。