日本ハムの宮台康平が25日、戦力外通告を受けた。2017年のドラフト7位で日本ハムから指名されたときは、「東京大出身のプロ野球選手」として話題となったが、これまでの3年間で一軍登板わずか1試合。球団は育成契約を打診しているという。
宮台は、東大出身者では6人目のプロ野球選手だ。これまでの選手たちはいずれも、球史に興味深い足跡を刻んだ選手ばかり。ここでは、彼ら5人の経歴について紹介しよう。
▼新治伸治(投手/元大洋)
通算成績:88登板 9勝6敗 82奪三振 防御率3.29
東大からのプロ野球選手第一号は、プロ入りの経緯からして特殊だった。1965年に東大の経済学部を卒業後、水産加工業の大手・大洋漁業(現マルハニチロ)に入社。この時点では普通のサラリーマンだったが、、社長の中部謙吉に東大でエースとして投げ続けた経験を買われ、“子会社”の大洋ホエールズ(現DeNA)に、“出向”させられた。
しかし、元サラリーマンのプロ野球選手は意外な好投を見せる。開幕から中継ぎとして投げ続け、7月25日の対広島戦では、3番手として投げた直後に味方が逆転してプロ初勝利。10月18日の対サンケイ(現ヤクルト)戦では完投勝利も記録した。結局この年は40試合に登板して5勝2敗、防御率3.16と活躍。翌66年も37試合に登板したが、その後は徐々に出番が減少し、68年のシーズン終了後に親会社の大洋漁業へ“復帰”して引退する。サラリーマンに戻ってからは順調に出世し、支社長や系列会社の社長、そして横浜ベイスターズの球団顧問などを歴任し、04年に62歳で亡くなった。
▼井手峻(投手・外野手/元中日)
通算成績(投手)/通算成績(打撃):17登板 1勝4敗 21奪三振 防御率5.13/359試合 12安打1本塁打2打点 4盗塁 打率.188 OPS.474
ドラフト制度が開始されてからは初の東大出身選手。東大では3年次の65年に、アジア野球選手権の日本代表メンバーにも選ばれている。卒業後は三菱商事に内定が決まっていたが、66年の第2次ドラフト(この年は社会人と国体に出場しない高校生が第1次ドラフト、大学生と国体出場の高校生は第2次ドラフトの指名対象だった)で、中日から3位指名を受けて翻意し、プロ野球の世界に身を投じた。
プロ1年目から一軍で17試合に登板し、9月には大洋戦で新治と“東大対決”を演じたりもしたが、肩を痛めて2年目からは外野手に転向。その後は俊足と強肩を武器に、代走や守備固めで活躍した。73年5月5日には、巨人の左腕エース高橋一三から決勝弾を放ったが、これは今も東大出身者唯一の本塁打である。76年の引退後は会社員をしていたが、78年からは中日に復帰し、コーチや二軍監督を歴任した後にフロント入り。50年以上にわたって中日にかかわり、さまざまな立場で球団を支え続けた後、19年12月に母校・東大の野球部監督に就任した。
宮台は、東大出身者では6人目のプロ野球選手だ。これまでの選手たちはいずれも、球史に興味深い足跡を刻んだ選手ばかり。ここでは、彼ら5人の経歴について紹介しよう。
▼新治伸治(投手/元大洋)
通算成績:88登板 9勝6敗 82奪三振 防御率3.29
東大からのプロ野球選手第一号は、プロ入りの経緯からして特殊だった。1965年に東大の経済学部を卒業後、水産加工業の大手・大洋漁業(現マルハニチロ)に入社。この時点では普通のサラリーマンだったが、、社長の中部謙吉に東大でエースとして投げ続けた経験を買われ、“子会社”の大洋ホエールズ(現DeNA)に、“出向”させられた。
しかし、元サラリーマンのプロ野球選手は意外な好投を見せる。開幕から中継ぎとして投げ続け、7月25日の対広島戦では、3番手として投げた直後に味方が逆転してプロ初勝利。10月18日の対サンケイ(現ヤクルト)戦では完投勝利も記録した。結局この年は40試合に登板して5勝2敗、防御率3.16と活躍。翌66年も37試合に登板したが、その後は徐々に出番が減少し、68年のシーズン終了後に親会社の大洋漁業へ“復帰”して引退する。サラリーマンに戻ってからは順調に出世し、支社長や系列会社の社長、そして横浜ベイスターズの球団顧問などを歴任し、04年に62歳で亡くなった。
▼井手峻(投手・外野手/元中日)
通算成績(投手)/通算成績(打撃):17登板 1勝4敗 21奪三振 防御率5.13/359試合 12安打1本塁打2打点 4盗塁 打率.188 OPS.474
ドラフト制度が開始されてからは初の東大出身選手。東大では3年次の65年に、アジア野球選手権の日本代表メンバーにも選ばれている。卒業後は三菱商事に内定が決まっていたが、66年の第2次ドラフト(この年は社会人と国体に出場しない高校生が第1次ドラフト、大学生と国体出場の高校生は第2次ドラフトの指名対象だった)で、中日から3位指名を受けて翻意し、プロ野球の世界に身を投じた。
プロ1年目から一軍で17試合に登板し、9月には大洋戦で新治と“東大対決”を演じたりもしたが、肩を痛めて2年目からは外野手に転向。その後は俊足と強肩を武器に、代走や守備固めで活躍した。73年5月5日には、巨人の左腕エース高橋一三から決勝弾を放ったが、これは今も東大出身者唯一の本塁打である。76年の引退後は会社員をしていたが、78年からは中日に復帰し、コーチや二軍監督を歴任した後にフロント入り。50年以上にわたって中日にかかわり、さまざまな立場で球団を支え続けた後、19年12月に母校・東大の野球部監督に就任した。