▼小林至(投手/元ロッテ)
通算成績:一軍出場なし
東大在学中は結局1勝もできず。なぜなら当時の東大は今もリーグ記録の70連敗を喫するなど、暗黒時代の真っただ中だったからだ。それでもマスコミの取材のたびに「プロに行きたい!」と宣言していたところ、ロッテの金田正一監督の耳に入り、91年に入団テストを受けて合格。練習生として在籍した後、同年のドラフト8位でロッテに指名された。
プロ2年間で一軍出場は果たせず、二軍でも計26試合の登板に終わったが、引退後にアメリカのコロンビア大学経営大学院に留学してMBA(経営学修士号)を取得。05年からはソフトバンクの球団取締役として招聘され、三軍制度の設立を主導し、現在のソフトバンク黄金時代の礎を作った人物でもある。現在は桜美林大学で教授を務めている。
▼遠藤良平(投手/元日本ハム)
通算成績:1登板 0勝0敗 0奪三振 防御率なし
六大学リーグの選手として神宮球場で投げたいという夢を持ち、一浪の末に東大に合格。1年の春からリーグ戦で起用され、大学4年間で通算57試合に登板して8勝を挙げた。これは東大の左腕投手では歴代最多の数字だ。99年のドラフトでは日本ハムから7位指名を受けて入団した。
一軍での登板は1試合のみで、プロ2年目の01年10月1日、左打者・柴田博之のワンポイントリリーフとしてマウンドに上がった。だが、すぐに右打者の玉野宏昌が代打に送られて内野安打で出塁を許し、1死も取れずに降板。後続が打たれて玉野の生還を許したため、生涯防御率は「無限大」となっている。引退後は球団のフロント入りし、ダルビッシュ有(現カブス)や大谷翔平(現エンジェルス)などの育成にもかかわった。15年からはGM補佐を務めている。
▼松家卓弘(投手/元横浜ほか)
通算成績:14登板 0勝1敗 15奪三振 防御率4.50
香川県では随一の進学校、高松高の出身。甲子園出場こそないが、実力は香川県内でもよく知られており、当時からプロ注目の存在だったという。六大学では“弱小”の東大において、異端ともいえる「勝ちにこだわる姿勢」を見せて野球部を牽引。大学4年時の04年には、東大が10年ぶりに年間5勝を挙げたが、うち3勝は松家が記録したものだ。同年のドラフトでは横浜(現DeNA)から9位指名を受けて入団。
プロ入り後4年間は一軍出場なしと苦しんだが、5年目の09年にリリーフとして9試合に登板。0勝1敗、防御率4.60の成績を残すも、オフに3対3のトレードで日本ハムへ移籍した。新天地1年目は5試合に投げたが、その後は登板がないまま12年限りで戦力外通告を受ける。その後はアメリカでの現役続行を目指し、ドジャースやホワイトソックスのトライアウトを受けたが不合格に終わった。15年に故郷・香川県の教員採用試験に合格し、現在は高松西高で教鞭を執っている。
文●筒居一孝(SLUGGER編集部)
【PHOTOギャラリー】球界を牽引するスター選手たちの「高校」「大学」当時を秘蔵写真で振り返る
通算成績:一軍出場なし
東大在学中は結局1勝もできず。なぜなら当時の東大は今もリーグ記録の70連敗を喫するなど、暗黒時代の真っただ中だったからだ。それでもマスコミの取材のたびに「プロに行きたい!」と宣言していたところ、ロッテの金田正一監督の耳に入り、91年に入団テストを受けて合格。練習生として在籍した後、同年のドラフト8位でロッテに指名された。
プロ2年間で一軍出場は果たせず、二軍でも計26試合の登板に終わったが、引退後にアメリカのコロンビア大学経営大学院に留学してMBA(経営学修士号)を取得。05年からはソフトバンクの球団取締役として招聘され、三軍制度の設立を主導し、現在のソフトバンク黄金時代の礎を作った人物でもある。現在は桜美林大学で教授を務めている。
▼遠藤良平(投手/元日本ハム)
通算成績:1登板 0勝0敗 0奪三振 防御率なし
六大学リーグの選手として神宮球場で投げたいという夢を持ち、一浪の末に東大に合格。1年の春からリーグ戦で起用され、大学4年間で通算57試合に登板して8勝を挙げた。これは東大の左腕投手では歴代最多の数字だ。99年のドラフトでは日本ハムから7位指名を受けて入団した。
一軍での登板は1試合のみで、プロ2年目の01年10月1日、左打者・柴田博之のワンポイントリリーフとしてマウンドに上がった。だが、すぐに右打者の玉野宏昌が代打に送られて内野安打で出塁を許し、1死も取れずに降板。後続が打たれて玉野の生還を許したため、生涯防御率は「無限大」となっている。引退後は球団のフロント入りし、ダルビッシュ有(現カブス)や大谷翔平(現エンジェルス)などの育成にもかかわった。15年からはGM補佐を務めている。
▼松家卓弘(投手/元横浜ほか)
通算成績:14登板 0勝1敗 15奪三振 防御率4.50
香川県では随一の進学校、高松高の出身。甲子園出場こそないが、実力は香川県内でもよく知られており、当時からプロ注目の存在だったという。六大学では“弱小”の東大において、異端ともいえる「勝ちにこだわる姿勢」を見せて野球部を牽引。大学4年時の04年には、東大が10年ぶりに年間5勝を挙げたが、うち3勝は松家が記録したものだ。同年のドラフトでは横浜(現DeNA)から9位指名を受けて入団。
プロ入り後4年間は一軍出場なしと苦しんだが、5年目の09年にリリーフとして9試合に登板。0勝1敗、防御率4.60の成績を残すも、オフに3対3のトレードで日本ハムへ移籍した。新天地1年目は5試合に投げたが、その後は登板がないまま12年限りで戦力外通告を受ける。その後はアメリカでの現役続行を目指し、ドジャースやホワイトソックスのトライアウトを受けたが不合格に終わった。15年に故郷・香川県の教員採用試験に合格し、現在は高松西高で教鞭を執っている。
文●筒居一孝(SLUGGER編集部)
【PHOTOギャラリー】球界を牽引するスター選手たちの「高校」「大学」当時を秘蔵写真で振り返る