プロ野球

山口俊はふたたび日本で輝けるのか?シーズン途中NPB復帰組の“明暗”<SLUGGER>

SLUGGER編集部

2021.06.10

途中復帰した選手には、ともに元レンジャーズの福盛(右上)と建山(右下)が含まれるが、その結果は対照的なもの。山口(左)は果たしてどちらの道をたどるのか。(C)Getty Images

 ジャイアンツ傘下3Aサクラメント・リバーキャッツと契約を解除し、日本に帰国していた山口俊が、6月10日に巨人と契約。珍しいシーズン途中での日本球界復帰となった。

 投手陣の台所事情が苦しい巨人にとって、2018年にノーヒットノーランを達成し、翌19年は最多勝(15勝)、最高勝率(.789)、最多奪三振(188)の三冠を獲得した男の復帰は喜ばしいニュースだろう。もっとも、過去にシーズン途中で日本復帰したケースを振り返ると、成功例は非常に少ない。その数少ない成功例の一人が、2009年にレンジャーズから楽天へ復帰した福盛和男だ。

 前年に05年に創設された同チームで初代クローザーの座を占めていた福盛は、08年に当時の野村克也監督の熱心な慰留を振り切って渡米。だが、レンジャーズでは1年目にわずか4登板、2年目も開幕マイナースタートとなり、昇格の可能性はほぼないという事態に。そのため、6月に日本復帰を希望して退団。渡米時の遺恨から野村監督に一時復帰を拒絶されるという一幕もあったが、最終的には許されて楽天へ戻った。

 6月後半からの戦列復帰となったが、再びクローザーの座に返り咲いて35登板で10セーブ(失敗は1度のみ)、防御率2.18と安定した成績で、球団初のクライマックスシリーズ進出に貢献した。オフの契約更改では年俸が440万円から5000万円まで実に1036%もアップ。これは現在に至るまで史上最大の給料アップ率となっている。

 また、少し変わった形式だが、藤川球児も成功例に数えていいだろう。

 メジャーでは故障に苦しむと、阪神からのラブコールを蹴って15年に復帰先へ選んだのは四国アイランドリーグの高知ファイティングドッグス。高知県は藤川の故郷であり、「子供たちに夢を与えたい」というのがその理由だった。

 当初は無報酬、かつ登板する試合ごとに契約を結ぶ異例の形式だったが、6試合に先発して2勝1敗、防御率0.82。まだまだやれることを見せつけた。オフに退団した後はヤクルト、中日も争奪戦に参戦したが、古巣の阪神へ復帰。16~20年の5年間で220試合に登板し、19年には史上初の通算150セーブ&150ホールドを達成するなど実力は健在だった。
 
 だが、福盛も藤川もあくまで稀有な例。その他は決して成功とは言えない。

 シーズン途中の日本復帰第1号となったのは、2000年の木田優夫。たった2登板とはいえこの年はMLBのタイガースでも登板したのだが、オリックスへ復帰した後は安定感に欠け防御率は5点台。たった2年で自由契約になった。その後再びメジャーに挑み、戻ってきた後も好投したが、いずれにしても1回目が失敗だったことには変わりがない。

 14年に復帰した建山義紀に至っては、まさに日本でも何もできなかったという表現が正しい。日本ハムではキレの良いスライダーを武器に04年には最優秀中継ぎ投手も受賞するなど、リリーフエースとしてチームを支えたが、11年に35歳でメジャー挑戦してからは振るわず。渡米4年目の14年、ヤンキース傘下のマイナーチームからも解雇され引退を考えていたところに、リリーバーを探していた阪神からのオファーが舞い込んだ。かつて赤星憲広が着けていた背番号53を継承し、チーム最年長の38歳での再出発となったが、わずか8登板とほとんど働けなかった。

 山口はいまだ33歳。建山よりははるかに若いが、もうひと花咲かせられるかどうかに年齢は関係ないらしい。木田が日本に戻ってきたのは31歳の時だったが上手くいかなかったし、藤川は34歳でも成功した。果たして山口は、どちらに属することになるだろうか。

構成●SLUGGER編集部