去る12月11日、神宮球場で「野村克也をしのぶ会」が行なわれた。
南海、ヤクルト、阪神、楽天と4球団で監督を歴任した野村氏、いやノムさんは、2020年2月11日に亡くなった(享年84歳)。しのぶ会では、教え子の江本孟紀氏、古田敦也氏、高津臣吾監督(ヤクルト)が弔辞を読み、阪神の矢野燿大監督、日本ハムの新庄剛志監督らが参列して献花した。
参列者600人のほとんど全員が礼服かシックな平服のいで立ちのなか、新庄だけが異彩を放っていた。グレーのヴェルサーチのジャケットに黒のタートルネック。もともと、阪神時代の新庄がノムさんに勧めたものだ。「どこの服がいいんや?」「そりゃヴェルサーチですよ」。一緒にヴェルサーチへ買いに行ったというから驚きだ。当日のジャケットは新庄がノムさんの息子・克則氏から譲ってもらった形見。「中華料理の食べこぼしのシミが残っています」(新庄)。
参列者は順番に献花台に花を手向けたが、新庄は祭壇に投げた。「僕も投打二刀流をやった。捕手だった野村さんに受け取ってもらいたかった」。最後のキャッチボールだった。
ノムさんと言えば、90分にもおよぶ長い「ミーティング」が有名だった。だが、新庄は、「人間の集中力は、学校の授業と一緒で45分です。45分にしてください。お願いします」とノムさんに頼み込んだ。日本一3度の大監督には、選手も記者もみな臆していた。そんななかで、無邪気に本音で懐に飛び込んでくる新庄は、ノムさんにとって「憎らしいくらい可愛い」存在だった。
1999年に阪神の監督に就任したノムさんは、新庄がチーム浮沈のキーパーソンになると感じ取っていた。92年、阪神はノムさんが指揮を執ってたヤクルトと熾烈な優勝争いを演じ、新庄は亀山努とともに“亀新フィーバー”を巻き起こした。94年には、ヤクルト戦で守護神・高津臣吾から延長12回にサヨナラ満塁弾も放った。
新庄に「投打二刀流」を提案したのは、投手心理を知ることで、打撃面のさらなる向上を目論んだからである。ノムさんはかつて、江本孟紀(南海)や田畑一也(ヤクルト)に打撃練習の捕手を経験させたことがあった。
4番を打たせたのも、「何番を打ちたい?」「そりゃ4番ですよ」というやり取りがあったから。「地位が人を育てる」がノムさんの持論だった。実力より少し上の地位を与えれば、人は努力してそれに見合うようになる。
その期待に応え、00年の新庄は打率.278、28本塁打、85打点とキャリアハイの成績を残した。「ワシの24年間の監督生活の中でも、広瀬叔功(南海)、飯田哲也(ヤクルト)と並びベスト3に入る名センターだ」とノムさんは称賛を惜しまなかった。
そして、今年11月4日。監督就任記者会見での新庄は、実はノムさんそっくりだった。「“ビックボス”と呼んでください」でいきなりファンのハートをワシづかみにしたあの姿は、「監督は広報部長を兼ねている」が口癖だったノムさんを彷彿とさせた。
それ以外にも、随所にノムさんの薫陶が感じられた。「『ありがとう』を言える選手を育てたい」という言葉も、「社会で一番小さなルールを守れなければ、野球技術上達のルールを守れるわけがない」と人間教育を徹底したノムさんに重なった。「自分の考えを本にして渡そうかな」というのも、『ノムラの考え』と称した小冊子を選手に配布したノムさんそのものだ。
あの藤川球児は言う。「時代が新庄さんに追いついてきた」。「ノムラ野球」+「宇宙人野球」=「革命」。ビッグボスの言動からは今後も目が離せない。
文●小村正英
南海、ヤクルト、阪神、楽天と4球団で監督を歴任した野村氏、いやノムさんは、2020年2月11日に亡くなった(享年84歳)。しのぶ会では、教え子の江本孟紀氏、古田敦也氏、高津臣吾監督(ヤクルト)が弔辞を読み、阪神の矢野燿大監督、日本ハムの新庄剛志監督らが参列して献花した。
参列者600人のほとんど全員が礼服かシックな平服のいで立ちのなか、新庄だけが異彩を放っていた。グレーのヴェルサーチのジャケットに黒のタートルネック。もともと、阪神時代の新庄がノムさんに勧めたものだ。「どこの服がいいんや?」「そりゃヴェルサーチですよ」。一緒にヴェルサーチへ買いに行ったというから驚きだ。当日のジャケットは新庄がノムさんの息子・克則氏から譲ってもらった形見。「中華料理の食べこぼしのシミが残っています」(新庄)。
参列者は順番に献花台に花を手向けたが、新庄は祭壇に投げた。「僕も投打二刀流をやった。捕手だった野村さんに受け取ってもらいたかった」。最後のキャッチボールだった。
ノムさんと言えば、90分にもおよぶ長い「ミーティング」が有名だった。だが、新庄は、「人間の集中力は、学校の授業と一緒で45分です。45分にしてください。お願いします」とノムさんに頼み込んだ。日本一3度の大監督には、選手も記者もみな臆していた。そんななかで、無邪気に本音で懐に飛び込んでくる新庄は、ノムさんにとって「憎らしいくらい可愛い」存在だった。
1999年に阪神の監督に就任したノムさんは、新庄がチーム浮沈のキーパーソンになると感じ取っていた。92年、阪神はノムさんが指揮を執ってたヤクルトと熾烈な優勝争いを演じ、新庄は亀山努とともに“亀新フィーバー”を巻き起こした。94年には、ヤクルト戦で守護神・高津臣吾から延長12回にサヨナラ満塁弾も放った。
新庄に「投打二刀流」を提案したのは、投手心理を知ることで、打撃面のさらなる向上を目論んだからである。ノムさんはかつて、江本孟紀(南海)や田畑一也(ヤクルト)に打撃練習の捕手を経験させたことがあった。
4番を打たせたのも、「何番を打ちたい?」「そりゃ4番ですよ」というやり取りがあったから。「地位が人を育てる」がノムさんの持論だった。実力より少し上の地位を与えれば、人は努力してそれに見合うようになる。
その期待に応え、00年の新庄は打率.278、28本塁打、85打点とキャリアハイの成績を残した。「ワシの24年間の監督生活の中でも、広瀬叔功(南海)、飯田哲也(ヤクルト)と並びベスト3に入る名センターだ」とノムさんは称賛を惜しまなかった。
そして、今年11月4日。監督就任記者会見での新庄は、実はノムさんそっくりだった。「“ビックボス”と呼んでください」でいきなりファンのハートをワシづかみにしたあの姿は、「監督は広報部長を兼ねている」が口癖だったノムさんを彷彿とさせた。
それ以外にも、随所にノムさんの薫陶が感じられた。「『ありがとう』を言える選手を育てたい」という言葉も、「社会で一番小さなルールを守れなければ、野球技術上達のルールを守れるわけがない」と人間教育を徹底したノムさんに重なった。「自分の考えを本にして渡そうかな」というのも、『ノムラの考え』と称した小冊子を選手に配布したノムさんそのものだ。
あの藤川球児は言う。「時代が新庄さんに追いついてきた」。「ノムラ野球」+「宇宙人野球」=「革命」。ビッグボスの言動からは今後も目が離せない。
文●小村正英