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MLB通算1000勝の元近鉄助っ人が語った日本。指導者としての“世界制覇”は「アメリカじゃ考えられない」野球の賜物

THE DIGEST編集部

2022.03.05

顔を赤らめて激高する姿から「赤鬼」と呼ばれたマニエル。その闘志を前面に押し出したスタイルもまた日本時代に培ったものだった。(C)Getty Images

 MLB通算1000勝を挙げた"闘将"にとって、現役生活中に経験した日本でのプレーは、大きな財産となったようだ。

 興奮して顔を真っ赤にすることから"赤鬼"の異名で、ライバルチームから恐れられ、ファンから愛されたチャーリー・マニエル。MLBでわずか4本塁打しか打てていなかった彼が日本へやってきたのは、1976年だった。数々の問題行動を起こした末に退団したジョー・ペピトーンの後釜探しに力を入れていたヤクルトと契約を締結した。

 1年目こそ鳴かず飛ばずだったマニエルは、2年目に長距離砲としての実力を発揮。打率.316、42本塁打、97打点のハイアベレージをマークし、あの王貞治とも本塁打王を争った。

 3年目にヤクルトの日本一に貢献すると、同年オフの12月に近鉄へトレードで移籍。関西の地でも獅子奮迅の活躍を見せた大砲は、在籍2年間で85本塁打、223打点と大暴れし、チームの初優勝を含む連覇(79、80年)に大きく貢献。とりわけ79年は凄まじく、長打率.712、OPS1.149でリーグMVPにも輝いた。

 1981年に一度ヤクルトと再契約を果たすも、成績不振に喘ぎわずか1年で退団。その後、すぐに指導者へと転身したマニエルは、ツインズとインディアンス(現ガーディアンズ)のマイナーチームで指揮。ここで彼は日本流の早出特打を設けて、声価を高めていった。

 その後、インディアンスの打撃コーチを経て、2000年からインディアンスの指揮官に就任。01年にア・リーグ中地区制覇に導くと、05年に着任したフィリーズではワールドシリーズ制覇(08年)を経験するなど、チームの黄金期を築いた。
 
 選手発掘にも長けていたマニエルは、MLB通算555本塁打のマニー・ラミレスのポテンシャルを見抜いた男でもある。数多の後進の指導をするにあたっては、6年間の日本時代が大いに役立ったという。先月25日に公開された元マリナーズのブレッド・ブーンのポッドキャスト番組『Welcome to the Bret Boone』のなかで、彼は次のように語っている。

「練習に時間を割くスタイルは私の日本で学んだことのひとつだった。とにかく日本の練習スタイルを愛していたんだ。私がプレーしていた時は、最低でも自主練として打撃練習を1時間は行なってから、通常の打撃練習をしていた。アメリカじゃ考えられないことだったけど、あの練習のおかげで私はいい選手になれた。

 だから、私はマイナーで監督になっても、その練習への取り組み方を継続した。当時は、少なくともスプリングトレーニングの期間中は、試合後でも打撃練習をさせた。選手たちはその方法を気に入ってくれたよ」

 数多の名手を育て上げながら、1000勝を挙げたマニエル。彼の順風満帆といえる指導者人生において、日本流のスタイルは小さくない影響をもたらしたと言える。

構成●THE DIGEST編集部

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