8月17日(現地)のマリナーズ戦で、大谷翔平(エンジェルス)がまた新たな記録を打ち立てた。この日は27号本塁打を含む4安打の大当たりだったが、第3打席で放った2試合連続の三塁打(今季5本目)がメジャー通算20本目の三塁打。これにより投手として通算20勝、打者として20三塁打を放った、過去100年で2人目の選手となったのである。
ただし、今回彼が並んだのは、あらゆる二刀流記録で名前の出てくるベーブ・ルースではない。20勝&20三塁打というレア記録の持ち主だったのはジョニー・クーニーで、この人物の野球人生がなかなか興味深いのだ。
父ジェームズもメジャーリーガーであり、兄弟4人がプロ野球選手という野球一家に育ったクーニーは、ルースと同じく左腕投手だった。1920年には、オフの間にルースをヤンキースへ売り払い、低迷のさなかにあったレッドソックスから入団の誘いを受けた。だが契約条件で合意に達せず、代わりに同じボストンを本拠としていたブレーブス(現在の本拠はアトランタ)に入団。翌21年に20歳でデビューし、22年に初勝利を挙げた。 続く23年は投手として23試合に登板する一方、外野などで19試合に起用され.379(66打数25安打)の高打率を残すと、24年は外野手として開幕を迎えた。だが16試合で打率.217と低迷すると、投手に再転向。以後は閉幕まで投手オンリーで、規定投球回にも達して8勝を挙げた。
25年は唯一の2ケタ勝利となるチームトップの14勝、防御率3.48もリーグ8位。投手として完全に開花したかに思えた。だが26年に肩を痛めてしまい、その後は30年まで5勝を追加したのみ。メジャーでの投手としてのキャリアは34勝44敗、防御率3.72で終わってしまった。
だが、その後もクーニーはマイナーリーグで野球を続ける。31年、ブレーブス時代の僚友だったケイシー・ステンゲルが監督を務めるトリード球団に加わり、同年と32年は2年続けて2ケタ勝利。打者としては35年に142試合で224安打、打率.372。両部門でリーグトップの活躍が認められ、同年9月、ステンゲルが監督となっていたブルックリン(現ロサンゼルス)・ドジャースで、5年ぶりにメジャー復帰を果たした。
ただし、今回彼が並んだのは、あらゆる二刀流記録で名前の出てくるベーブ・ルースではない。20勝&20三塁打というレア記録の持ち主だったのはジョニー・クーニーで、この人物の野球人生がなかなか興味深いのだ。
父ジェームズもメジャーリーガーであり、兄弟4人がプロ野球選手という野球一家に育ったクーニーは、ルースと同じく左腕投手だった。1920年には、オフの間にルースをヤンキースへ売り払い、低迷のさなかにあったレッドソックスから入団の誘いを受けた。だが契約条件で合意に達せず、代わりに同じボストンを本拠としていたブレーブス(現在の本拠はアトランタ)に入団。翌21年に20歳でデビューし、22年に初勝利を挙げた。 続く23年は投手として23試合に登板する一方、外野などで19試合に起用され.379(66打数25安打)の高打率を残すと、24年は外野手として開幕を迎えた。だが16試合で打率.217と低迷すると、投手に再転向。以後は閉幕まで投手オンリーで、規定投球回にも達して8勝を挙げた。
25年は唯一の2ケタ勝利となるチームトップの14勝、防御率3.48もリーグ8位。投手として完全に開花したかに思えた。だが26年に肩を痛めてしまい、その後は30年まで5勝を追加したのみ。メジャーでの投手としてのキャリアは34勝44敗、防御率3.72で終わってしまった。
だが、その後もクーニーはマイナーリーグで野球を続ける。31年、ブレーブス時代の僚友だったケイシー・ステンゲルが監督を務めるトリード球団に加わり、同年と32年は2年続けて2ケタ勝利。打者としては35年に142試合で224安打、打率.372。両部門でリーグトップの活躍が認められ、同年9月、ステンゲルが監督となっていたブルックリン(現ロサンゼルス)・ドジャースで、5年ぶりにメジャー復帰を果たした。
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