プロ野球

高校通算0本塁打だった小笠原、「飛距離は大したことなかった」阿部...高校時代は無名だったスラッガーたち【SLUGGER】

藤原彬

2023.08.20

小笠原(左)と阿部(右)。どちらも高校時代は名の知られた選手ではなかったが、WBC日本代表にまでのし上がった。(C)Getty Images

 結果的にはノーアーチに終わったが、今年の夏の甲子園では歴代最多の高校通算140本塁打を誇る佐々木麟太郎(花巻東高)に大きな注目が集まった。一方、プロで多くのホームランを放った選手の中には、高校時代はまだ才能が開花していなかった者も少なくない。大舞台とは無縁でも、プロで大きく飛躍した打者5人を紹介しよう。

■秋山幸二(通算437本塁打)
 1980年代後半~90年代前半に絶対的な強さを誇った西武打線を清原和博とともに支えた男も、八代高入学から1ヵ月ほどは帰宅部だった。野球は中学までと決めていたが、友人と先輩に促されて野球部に入部して投手を任される。3年夏の熊本県大会決勝では強豪・熊本工相手に1点リードで9回2死を迎え、2ストライク後の投球で甲子園行きを確信したがボール判定で、その後に逆転負けを喫した。

 プロ入り後に三塁手に転向。2年目の82にイースタン・リーグ新記録(当時)となる13本塁打を放つなど早くから打者として頭角を現し、一軍に定着した85年からいきなり3年連続40本塁打以上をマークした。俊足強肩でも鳴らし、三塁から移ったセンターの守備でも好守を連発。全盛期は「メジャーに一番近い男」と呼ばれた。

■小久保裕紀(通算413本塁打)
「高校時代、自分ほど練習した者は他にいない」と言い切るほど野球に明け暮れた星林高時代は、猛練習を課すことで有名だった谷口健次監督も「練習するなとストップをかけたのは小久保だけ」と認めたほど。夜のランニング中に、連絡を受けた母親から車で追いかけられて無理に押し込まれたとのエピソードも残っている。
 智弁和歌山高のセレクションを受けて「野手なら合格」を勝ち取りながら、投手へのこだわりから打倒名門を誓う立場にまわったが、3年夏に和歌山県大会準決勝で破れた。しかも相手の主戦投手は2歳年下の弟で、悔しさもひとしおだった。青山学院大でも入学時は投手だったが、途中から内野手に転向。ここで打者としての素質が一気に開花し、1992年にはバルセロナ五輪にも選出。プロでも豪快なアッパースウィングからアーチを量産し、球界屈指のスラッガーとして活躍した。

■小笠原道大(通算378本塁打)
 代名詞のフルスウィングを貫いたスラッガーも、信じられないことに高校時代はノーアーチ。強豪校からは声がかからず、暁星国際では二塁手と「一番嫌なポジション」だった捕手も任された。2年夏には千葉県大会決勝まで駒を進めるも、甲子園出場はならず。だが、後の愛称"ガッツ"の由来でもあるひたむきな努力を続ける姿に、当時の五島卓道監督が「高校通算30本塁打」と嘘をついてNTT関東に推薦し、野球人生がつながった。
 
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