実に理にかなったチームマネジメントだ。
ロッテが、このほど看板選手の一人、涌井秀章を金銭トレードで楽天に放出した。「放出」という言葉だけだと暗いイメージもするが、「チーム作り」という観点でみれば、至極納得のいくものだ。
井口資仁監督を招聘して2年が経ち、鳥越祐介ヘッド、吉井理人ピッチングコーチを据えた今のロッテは、これまでにないほどにチームが変化しようとしている。この流れに逆らう必要はなく、変化の象徴である「若手の台頭」を推し進める決断は、ポジティブなものと言えるだろう。
このチーム作りを進めたのが松本尚樹。スカウトから球団本部長にまで成り上がった実力者だ。
松本と言うと、いかにも人格者然としている風貌からは想像できないほどに、大胆な決断ができる人で、かつ、人情味にもあふれている。
思い返すのは、彼が現役を引退した翌年、まだ関西の担当スカウトだった2002年のことだ。当時のドラフトは、松坂世代が大学4年を迎える大豊作の年だった。
12人の自由枠指名があったほどで、一方、自由枠のない高校生の中では春の選抜を制した報徳学園のショート尾崎匡哉(のちに日本ハム)や夏の覇者・明徳義塾のキャプテン森岡良介(のちに中日、ヤクルト)、150km左腕として評価が高かった高井雄平(のちにヤクルト)がいた。
しかし、その中でロッテは「3位相当」の評価だった西岡剛を単独1位指名し、あっと驚かせたのである。その西岡をつぶさに追いかけていたのが松本だった。
ロッテにおける西岡の活躍は周知の通りである。05年にレギュラーに定着すると、打率.268ながら41盗塁をマークしてタイトルを獲得。リーグ優勝と日本一に貢献した。翌06年には第1回WBCでも優勝に貢献。その後もロッテの看板選手となり、10年にはシーズン200安打を達成。首位打者にも輝き、2度目の日本一を達成している。
ロッテが、このほど看板選手の一人、涌井秀章を金銭トレードで楽天に放出した。「放出」という言葉だけだと暗いイメージもするが、「チーム作り」という観点でみれば、至極納得のいくものだ。
井口資仁監督を招聘して2年が経ち、鳥越祐介ヘッド、吉井理人ピッチングコーチを据えた今のロッテは、これまでにないほどにチームが変化しようとしている。この流れに逆らう必要はなく、変化の象徴である「若手の台頭」を推し進める決断は、ポジティブなものと言えるだろう。
このチーム作りを進めたのが松本尚樹。スカウトから球団本部長にまで成り上がった実力者だ。
松本と言うと、いかにも人格者然としている風貌からは想像できないほどに、大胆な決断ができる人で、かつ、人情味にもあふれている。
思い返すのは、彼が現役を引退した翌年、まだ関西の担当スカウトだった2002年のことだ。当時のドラフトは、松坂世代が大学4年を迎える大豊作の年だった。
12人の自由枠指名があったほどで、一方、自由枠のない高校生の中では春の選抜を制した報徳学園のショート尾崎匡哉(のちに日本ハム)や夏の覇者・明徳義塾のキャプテン森岡良介(のちに中日、ヤクルト)、150km左腕として評価が高かった高井雄平(のちにヤクルト)がいた。
しかし、その中でロッテは「3位相当」の評価だった西岡剛を単独1位指名し、あっと驚かせたのである。その西岡をつぶさに追いかけていたのが松本だった。
ロッテにおける西岡の活躍は周知の通りである。05年にレギュラーに定着すると、打率.268ながら41盗塁をマークしてタイトルを獲得。リーグ優勝と日本一に貢献した。翌06年には第1回WBCでも優勝に貢献。その後もロッテの看板選手となり、10年にはシーズン200安打を達成。首位打者にも輝き、2度目の日本一を達成している。