しかし、そうした闘争心が常に良い結果をもたらしたわけではない。70年にシンシナティで行われたオールスターでは、インディアンスの捕手レイ・フォッシーに激しいタックルを食らわせ「エキシビジョン・ゲームなのにやりすぎだ」と非難された。73年のメッツとのリーグ優勝決定シリーズでは、バド・ハレルソンと球史に残る大乱闘を繰り広げた。
強烈な個性ゆえ、誰からも好かれたわけではなかった。「記録のためにプレーしている」「あのハッスルプレーも計算ずく」と陰口を叩かれたり、金に汚いとも言われた。だが豪放磊落なイメージに反し、体調管理には人一倍気を配り、酒やタバコとも無縁の生活を送っていた。そうでなければ、あれほど激しいプレースタイルにもかかわらず故障とはほぼ無縁で、40歳を超えてレギュラーを張ることもできなかっただろう。ローズほど野球に真摯に取り組んだ選手はほとんどいなかったし、心の底から野球を楽しんでいた。
73年は打率.338で3度目の首位打者となり、MVPも受賞。75年は「球がビーチボールのように見えた」ほどバットが振れていて、自身初の世界一となり、ワールドシリーズMVPに輝いた。翌76年も"ビッグ・レッド・マシーン"は2年連続世界一。78年は5月に史上13人目の3000安打を達成すると、6月14日からは44連続試合安打のナ・リーグタイ記録を樹立した。
同年オフにFAとなると、「レッズに16年もいたから愛着はあるが、稼げるチャンスを生かしたい」とフィリーズへ移籍。レッズがそれほど熱心に引き留めなかったのは、金額だけでなくローズの私生活、特にギャンブルに耽溺していることを危惧したからだと言われている。4年320万ドルでフィリーズ入団が発表されると、その後1ヵ月で300万ドル分のチケットが売れたほど、彼の人気は絶大だった。
フィリーズでも80年の世界一、83年のリーグ優勝に貢献。84年はエクスポズで4000本安打を達成した後、8月16日に監督兼選手として6年ぶりにレッズに復帰した。翌年9月11日にタイ・カッブの記録を破る4192本目のヒットを放つと、息子のピートJr.を抱き寄せて珍しくグラウンド上で涙を流した。最終的に通算安打数は4256まで伸ばし、86年を最後に45歳でバットを置いた。
「通算安打新記録を達成すると、俺には目標がなくなった。自分を熱くさせてくれるものが必要だった」
それがギャンブルであったのがローズの不幸だった。89年のキャンプ中、『スポーツ・イラストレイテッド』誌がローズの野球賭博疑惑を報道。「賭博なんてしていない、何なら賭けてもいいぞ」と当初は笑い飛ばしていたが、コミッショナー事務局の調査によって、レッズを含むメジャーリーグの公式戦の勝敗を賭けの対象にしていたことが明白となり、8月には永久追放処分を受け入れざるを得なくなった。その時点では罪を認めていなかったが、のちに「毎試合レッズの試合に賭けていた」と告白している。90年には脱税で5ヵ月間刑務所入りするなど、かつてのヒーローは落ちるところまで落ちた。
それでも99年にはオール・センチュリー・チームに選出され、資格を剥奪されている殿堂入り投票でもローズの名前を記入する記者が絶えない。背番号「14」はレッズの永久欠番となり、2016年にはチームの殿堂にも迎えられた。その翌年にはレッズの本拠地グレートアメリカン・ボールパークに、ローズの銅像が建立。現役時代の代名詞だったヘッドスライディングしている姿をかたどったものだ。
強烈な個性ゆえ、誰からも好かれたわけではなかった。「記録のためにプレーしている」「あのハッスルプレーも計算ずく」と陰口を叩かれたり、金に汚いとも言われた。だが豪放磊落なイメージに反し、体調管理には人一倍気を配り、酒やタバコとも無縁の生活を送っていた。そうでなければ、あれほど激しいプレースタイルにもかかわらず故障とはほぼ無縁で、40歳を超えてレギュラーを張ることもできなかっただろう。ローズほど野球に真摯に取り組んだ選手はほとんどいなかったし、心の底から野球を楽しんでいた。
73年は打率.338で3度目の首位打者となり、MVPも受賞。75年は「球がビーチボールのように見えた」ほどバットが振れていて、自身初の世界一となり、ワールドシリーズMVPに輝いた。翌76年も"ビッグ・レッド・マシーン"は2年連続世界一。78年は5月に史上13人目の3000安打を達成すると、6月14日からは44連続試合安打のナ・リーグタイ記録を樹立した。
同年オフにFAとなると、「レッズに16年もいたから愛着はあるが、稼げるチャンスを生かしたい」とフィリーズへ移籍。レッズがそれほど熱心に引き留めなかったのは、金額だけでなくローズの私生活、特にギャンブルに耽溺していることを危惧したからだと言われている。4年320万ドルでフィリーズ入団が発表されると、その後1ヵ月で300万ドル分のチケットが売れたほど、彼の人気は絶大だった。
フィリーズでも80年の世界一、83年のリーグ優勝に貢献。84年はエクスポズで4000本安打を達成した後、8月16日に監督兼選手として6年ぶりにレッズに復帰した。翌年9月11日にタイ・カッブの記録を破る4192本目のヒットを放つと、息子のピートJr.を抱き寄せて珍しくグラウンド上で涙を流した。最終的に通算安打数は4256まで伸ばし、86年を最後に45歳でバットを置いた。
「通算安打新記録を達成すると、俺には目標がなくなった。自分を熱くさせてくれるものが必要だった」
それがギャンブルであったのがローズの不幸だった。89年のキャンプ中、『スポーツ・イラストレイテッド』誌がローズの野球賭博疑惑を報道。「賭博なんてしていない、何なら賭けてもいいぞ」と当初は笑い飛ばしていたが、コミッショナー事務局の調査によって、レッズを含むメジャーリーグの公式戦の勝敗を賭けの対象にしていたことが明白となり、8月には永久追放処分を受け入れざるを得なくなった。その時点では罪を認めていなかったが、のちに「毎試合レッズの試合に賭けていた」と告白している。90年には脱税で5ヵ月間刑務所入りするなど、かつてのヒーローは落ちるところまで落ちた。
それでも99年にはオール・センチュリー・チームに選出され、資格を剥奪されている殿堂入り投票でもローズの名前を記入する記者が絶えない。背番号「14」はレッズの永久欠番となり、2016年にはチームの殿堂にも迎えられた。その翌年にはレッズの本拠地グレートアメリカン・ボールパークに、ローズの銅像が建立。現役時代の代名詞だったヘッドスライディングしている姿をかたどったものだ。