さらに、勝利の方程式を外れたことも貴重な経験となった。
常に勝負に関わるところで登板していた増田は、いつしかピッチングの中に冒険心を失っていた。失投して後悔したくないからと、ストレートとスライダーの2種類のみの配球に偏っていたのが、クローザーを外れたことで、新しい自分のピッチングを構築する機会を得られたのだ。
増田は言う。「中継ぎを経験したことによって、『抑えないといけない』という気持ちから、周りを見ながらできるようになりました。そういう経験があって、今年はフォークを使えるようになりました。フォークを投げて打たれることもありますけど、使っていくことによってバッターの反応は変わってくるし、データにも残っていくと思う。そういう球種を効果的に使ってい行くことが大事だなと」。
このような経験はクローザーを務めた投手にはよくあるらしい。
増井浩俊(オリックス)は日本ハム時代、不振のためクローザーから先発に一時転向した際にカーブを覚え、翌シーズン、クローザーに返り咲くことに成功した。山﨑康晃(DeNA)も、8、9回以外のイニングを投げることによる効果があると話していたことがある。
「自分が持っている一番いいボールを投げるのがクローザーとして一番のリスク回避だと僕は思っていました。納得いくボールじゃない球種を投げる怖さがあったんです。クローザー以外を経験したことで、目先を変えるために、スライダーで入ったり、ツーシームから入ってみたりすることがありました。クローザーでできること以外のことも挑戦できるようになって、視野が広がるようになった」。
増田も、視野の広がりについては感じることがあったようだ。「周りを見ながらできるようになった。余裕というか、それがフォークを使うことだったりするのかもしれない」。
今季は、ストレートとスライダーに加えて、カーブやフォークを恐れることなく投げ込んでいた。もちろん、ストレートのキレが戻ったことが大前提ではあるが、投球の幅を広げたことも復活の大きな要因となった。
今季、増田にとって転機となったのが4月7日の試合だった。
その日、チームは日本ハムの先発・有原航平に苦戦し、8回11三振を喫して無得点。苦戦を強いられていたが、9回、有原が降板したところで相手救援投手を打ち込んで3−2と逆転。急な試合展開となり、増田に勝ちゲームを締めくくる出番が回ってきたのだった。
「守護神をやりたい気持ちはありますけど、今年は任されたところで頑張ろうと決めてシーズンに入ったので、どこをやることになっても、自分の仕事をやるだけだと思っています。チームが勝てればそれでいい」
その日、増田は淡々と振り返ったが、この日の1セーブから積み重ねて、キャリア最高の数字を残したのである。
9月24日、優勝を決める9回裏、セーブシチュエーションではなかったが、辻監督はマウンド上でブルペンから登場する増田を迎えた。
指揮官はこう声をかけたという。
『この1イニング、優勝投手として楽しみなさい』。
最後はまっすぐで空振り三振に仕留めて優勝を決めた。優勝投手という称号は、挫折を乗り越えて自己ベストの成績を残した男への、最高の贈り物になった。
文●氏原英明(ベースボールジャーナリスト)
【著者プロフィール】
うじはら・ひであき/1977年生まれ。日本のプロ・アマを取材するベースボールジャーナリスト。『スラッガー』をはじめ、数々のウェブ媒体などでも活躍を続ける。近著に『甲子園という病』(新潮社)、『メジャーをかなえた雄星ノート』(文藝春秋社)では監修を務めた。
常に勝負に関わるところで登板していた増田は、いつしかピッチングの中に冒険心を失っていた。失投して後悔したくないからと、ストレートとスライダーの2種類のみの配球に偏っていたのが、クローザーを外れたことで、新しい自分のピッチングを構築する機会を得られたのだ。
増田は言う。「中継ぎを経験したことによって、『抑えないといけない』という気持ちから、周りを見ながらできるようになりました。そういう経験があって、今年はフォークを使えるようになりました。フォークを投げて打たれることもありますけど、使っていくことによってバッターの反応は変わってくるし、データにも残っていくと思う。そういう球種を効果的に使ってい行くことが大事だなと」。
このような経験はクローザーを務めた投手にはよくあるらしい。
増井浩俊(オリックス)は日本ハム時代、不振のためクローザーから先発に一時転向した際にカーブを覚え、翌シーズン、クローザーに返り咲くことに成功した。山﨑康晃(DeNA)も、8、9回以外のイニングを投げることによる効果があると話していたことがある。
「自分が持っている一番いいボールを投げるのがクローザーとして一番のリスク回避だと僕は思っていました。納得いくボールじゃない球種を投げる怖さがあったんです。クローザー以外を経験したことで、目先を変えるために、スライダーで入ったり、ツーシームから入ってみたりすることがありました。クローザーでできること以外のことも挑戦できるようになって、視野が広がるようになった」。
増田も、視野の広がりについては感じることがあったようだ。「周りを見ながらできるようになった。余裕というか、それがフォークを使うことだったりするのかもしれない」。
今季は、ストレートとスライダーに加えて、カーブやフォークを恐れることなく投げ込んでいた。もちろん、ストレートのキレが戻ったことが大前提ではあるが、投球の幅を広げたことも復活の大きな要因となった。
今季、増田にとって転機となったのが4月7日の試合だった。
その日、チームは日本ハムの先発・有原航平に苦戦し、8回11三振を喫して無得点。苦戦を強いられていたが、9回、有原が降板したところで相手救援投手を打ち込んで3−2と逆転。急な試合展開となり、増田に勝ちゲームを締めくくる出番が回ってきたのだった。
「守護神をやりたい気持ちはありますけど、今年は任されたところで頑張ろうと決めてシーズンに入ったので、どこをやることになっても、自分の仕事をやるだけだと思っています。チームが勝てればそれでいい」
その日、増田は淡々と振り返ったが、この日の1セーブから積み重ねて、キャリア最高の数字を残したのである。
9月24日、優勝を決める9回裏、セーブシチュエーションではなかったが、辻監督はマウンド上でブルペンから登場する増田を迎えた。
指揮官はこう声をかけたという。
『この1イニング、優勝投手として楽しみなさい』。
最後はまっすぐで空振り三振に仕留めて優勝を決めた。優勝投手という称号は、挫折を乗り越えて自己ベストの成績を残した男への、最高の贈り物になった。
文●氏原英明(ベースボールジャーナリスト)
【著者プロフィール】
うじはら・ひであき/1977年生まれ。日本のプロ・アマを取材するベースボールジャーナリスト。『スラッガー』をはじめ、数々のウェブ媒体などでも活躍を続ける。近著に『甲子園という病』(新潮社)、『メジャーをかなえた雄星ノート』(文藝春秋社)では監修を務めた。