▼3位 石嶺和彦
1993年オフ オリックス→阪神(1億650万円)
阪急/オリックス時代は30本塁打を3度記録し、90年には打点王も獲得した大砲が、93年に制定されたばかりのFA制度を利用して阪神に移籍。90年以降4年連続で30本塁打以上の打者がいなかった阪神にとって、救世主となるはずだった。だが、右ヒザに故障を抱えていた石嶺が活躍できたのは、パ・リーグのDH制あってこそ。移籍1年目は130試合にフル出場したものの打率.246、17本塁打、OPS.677と期待を裏切る成績だった。翌年以降はヒザの状態がどんどん悪化。翌年は9本、96年に至っては2本と本塁打数が激減し、結局この年限りで引退した。
▼2位 星野伸之
1999年オフ オリックス→阪神(3年4億円)
最速130キロの直球と90キロ台のスローカーブを組み合わせた緩急自在の投球で、99年までに通算168勝を挙げたパ・リーグ有数の名投手。エース不在だった当時の阪神にとっては、喉から手が出るほど欲しい存在で、3年4億円の好条件を提示して獲得に成功した。だが、開幕投手を務めた移籍1年目は5勝10敗、防御率4.60と不本意な成績。2年目以降は頻脈を患ったこともあり、計18試合登板のみに終わった。結局、阪神での3年間は通算8勝13敗、防御率3.80。期待されていた役割は果たせないままユニフォームを脱いだ。
▼1位 川崎憲次郎
2000年オフ ヤクルト→中日(3年6億円)
98年には沢村賞も受賞した90年代ヤクルトのエース。特に巨人戦では当時現役最多の29勝と“巨人キラー”ぶりで知られていた。FA宣言はメジャーリーグ挑戦を目指してのものだったが、かつて同じ“巨人キラー”だった中日の星野仙一監督から熱心な勧誘を受け、移籍を決断。だが、入団1年目はオープン戦で右肩を痛めていきなり全休。翌年以降も状態は改善せず、一軍どころか二軍でもろくに登板できない状態が続き、結局、3年連続で全休。03年にはインターネット上でファンが「川崎をオールスターファン投票で1位にしよう」運動を展開し、大量の組織票が投じられて川崎はファン投票1位に“晒し上げ”られる事件も起こった(川崎は出場辞退)。04年は落合博満新監督により開幕投手に抜擢されるが、結局この年も3登板で防御率34.71と打ち込まれ、現役引退を選んだ。
構成●SLUGGER編集部
1993年オフ オリックス→阪神(1億650万円)
阪急/オリックス時代は30本塁打を3度記録し、90年には打点王も獲得した大砲が、93年に制定されたばかりのFA制度を利用して阪神に移籍。90年以降4年連続で30本塁打以上の打者がいなかった阪神にとって、救世主となるはずだった。だが、右ヒザに故障を抱えていた石嶺が活躍できたのは、パ・リーグのDH制あってこそ。移籍1年目は130試合にフル出場したものの打率.246、17本塁打、OPS.677と期待を裏切る成績だった。翌年以降はヒザの状態がどんどん悪化。翌年は9本、96年に至っては2本と本塁打数が激減し、結局この年限りで引退した。
▼2位 星野伸之
1999年オフ オリックス→阪神(3年4億円)
最速130キロの直球と90キロ台のスローカーブを組み合わせた緩急自在の投球で、99年までに通算168勝を挙げたパ・リーグ有数の名投手。エース不在だった当時の阪神にとっては、喉から手が出るほど欲しい存在で、3年4億円の好条件を提示して獲得に成功した。だが、開幕投手を務めた移籍1年目は5勝10敗、防御率4.60と不本意な成績。2年目以降は頻脈を患ったこともあり、計18試合登板のみに終わった。結局、阪神での3年間は通算8勝13敗、防御率3.80。期待されていた役割は果たせないままユニフォームを脱いだ。
▼1位 川崎憲次郎
2000年オフ ヤクルト→中日(3年6億円)
98年には沢村賞も受賞した90年代ヤクルトのエース。特に巨人戦では当時現役最多の29勝と“巨人キラー”ぶりで知られていた。FA宣言はメジャーリーグ挑戦を目指してのものだったが、かつて同じ“巨人キラー”だった中日の星野仙一監督から熱心な勧誘を受け、移籍を決断。だが、入団1年目はオープン戦で右肩を痛めていきなり全休。翌年以降も状態は改善せず、一軍どころか二軍でもろくに登板できない状態が続き、結局、3年連続で全休。03年にはインターネット上でファンが「川崎をオールスターファン投票で1位にしよう」運動を展開し、大量の組織票が投じられて川崎はファン投票1位に“晒し上げ”られる事件も起こった(川崎は出場辞退)。04年は落合博満新監督により開幕投手に抜擢されるが、結局この年も3登板で防御率34.71と打ち込まれ、現役引退を選んだ。
構成●SLUGGER編集部