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プロ野球

【プロ野球秘話】阪神、1985年日本一の舞台裏。バックスクリーン3連発の陰に隠れた味な“犠打記録“

北野正樹

2020.12.30

1986年、1500試合出場の柏原選手(右)を表彰する渋沢事務局長。(阪神タイガース発行『昭和のあゆみ』より)

1986年、1500試合出場の柏原選手(右)を表彰する渋沢事務局長。(阪神タイガース発行『昭和のあゆみ』より)

 85年4月13日、開幕の広島戦。リリーフエースの山本和行で延長10回サヨナラ負けを喫し、五分に戻して迎えた16日からの本拠地・甲子園球場での巨人戦に3連勝し、波に乗った。2戦目には、伝説となっているバース、掛布、岡田のバックスクリーン3連発が飛び出すなど、この年の阪神は、強打で初の日本一に輝いた。チーム本塁打は3冠王に輝いたバースの54本を筆頭にセ・リーグ新記録(当時)の219本、打率は2割8分5厘と他チームを圧倒した。

 その陰で見逃せないのが犠打数だった。141犠打もリーグ記録で、平田勝男、北村照文は各25犠打をマークした。

 「優勝へのターニングポイントだった」と吉田が振り返る、前半戦最後の試合となった岡山での首位・広島との試合(7月18日)。平田がプロ野球タイ記録となる1試合4犠打、北村も1犠打を決めてみせた。試合は犠打を絡めた攻撃で11―4と大勝。試合前に「4」あったゲーム差は同率2位の巨人とともに「3」になった。「後半戦を5ゲーム差で入るのと、3差では大違いだった」と吉田は振り返る。
 
 この試合の犠打には、逸話がある。広島市民球場での2試合に連敗し、岡山に移動する前の宿舎での出来事だ。担当記者から「最近の試合、バントが少ないですね」と質問された吉田が、その言葉をナイターの作戦の参考にしたという。直前カードの12、13日の巨人戦(後楽園)での犠打は1。広島での2試合で犠打はなかっただけに、意図的な采配だったといえる。質問した元毎日新聞記者の村上清司さん(73)は「前夜の試合でバントをせず、強硬策が失敗していたので、聞いてみた。今、お会いしても吉田さんからは『初心に返ることが出来た質問だった』と感謝される」と振り返る。

 1度目の監督時代はメディアと対立する場面もあった吉田だが、7年ぶりの復帰時には担当記者の素朴な疑問を受け入れる度量があった。また、85年5月12日のヤクルト戦でプロ初勝利を初完封で飾った仲田幸司に対し、「仲田、おめでとう。プロ初勝利、初完封、実に立派な堂々たる態度、素晴らしかった」と、さらなる飛躍を願う手紙を翌日に送ったこともあった。

 阪神球団発行の「阪神タイガース 昭和の歩み」でも、〔充電すること7年間。六十年に監督に返り咲いた。頑固で一徹者であることは往年と変わりはないものの、その言動に丸みを帯びるようになった〕と2度目の監督時代の吉田を評している。

 渋沢はセ・リーグ事務局長時代、プレーが中断した理由を球審らが場内アナウンスで説明するよう各球場に設備を求めるなど、ファン目線でプロ野球を改革。退任後は、NPO法人「野球振興ふるさと宮城プロ野球選手・OB会」の理事長として、野球振興に尽力した。
 2020年3月16日、88歳で鬼籍に入った渋沢。85年のシーズン前に、吉田の人間的な成長も見逃さなかったに違いない。

文●北野正樹(フリーライター)
 

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