他の代替選手たちも同じような目に遭った。7年のメジャー経験を持ちながら代替選手の道を選んだリック・リード(レッズ)への、組合員からの批判は殊の外強かった。母親が病を得ていたリードは治療費を稼ぐ必要があり、ディオン・サンダースのように理解を示した選手もいたが「あいつをチームメイトとして扱うことはあり得ない」と断言した者もいた。リードはその後メッツに移籍して97年に13勝、以後5年連続2ケタ勝利と活躍した。それでもなお「特別無視されたりはしなかったけど、チームの一員という感じは持てなかった」と疎外感を拭えなかった。
「チームから試合に出ろと言われて出ただけだし、問題になることはないと言われていた」はずのダミアン・ミラーは、ダイヤモンドバックスの正捕手になったが、99年に地区優勝した時も、01年にワールドシリーズを制覇したと時も、記念のTシャツに彼の名はなかった。ストライキから6年、チームに加わって4年が経っていたのにまだ差別は続いていたのだ。
02年に世界一になったエンジェルスではブレンダン・ドネリーが同じ立場で、市販用のTシャツにやはり彼の名はなく、彼と家族用にわざわざ別のシャツが用意された。明るいキャラクターで人気を集めたケビン・ミラーでさえ、04年のレッドソックス世界一記念グッズから除外されている。ヤンキースが96年に世界一となった際には、ジョージ・スタインブレナー・オーナーが選手会の反対を無視し、3人の代替選手にボーナスとチャンピオンリングを与えたが、このような例は稀だった。
けれども、もともとプロ選手ですらなかった者にとっては、メジャーリーガー気分を味わえた良い思い出でもあったようだ。大学までで野球を諦め、造園業の会社を営んでいたババ・ワグノンもその一人。彼はメッツのキャンプに参加した経験をこう語っている。
「本物のメジャーの監督やコーチに指導してもらったんだ。今じゃその教えがソフトボールのコーチとして役立っているよ。クビになった時も、メッツのロゴ入りバッグを持ち帰れたしね」
選手会の立場からすれば、ストライキ破りを認めるわけにいかないのは当然だ。とはいえ、代替選手にも彼らなりの立場や言い分があったわけで、少しくらいはそれに耳を貸しても良さそうなもの。
メジャー通算422セーブを挙げたビリー・ワグナーは当時マイナーリーガーで、アストロズからキャンプへの参加を求められたが「いずれメジャーに上がれる自信があったから断った。でもそうじゃない選手には、金を稼げるチャンスだったんだから、間違いだったとは言えない」と同情を寄せる。一方でリリーフ左腕のマイク・マイヤーズは「断ろうと思えば断れたはずだし、実際そうした奴もいたんだから」と突き放している。
1960年代にマービン・ミラーが事務局長に就任して以降、選手会は自らの権利に目覚め、オーナー側の言いなりにはならなくなっていった。年俸調停やフリー・エージェントなどの制度を通じて、選手の待遇は劇的に改善された。その反面、ストライキにより72年は開幕が遅れ、81年はシーズンが中断し異例の前後期制が採用されるなど、労使紛争がファンの楽しみを奪う事態も何度となく発生した。代替選手に対する選手会の態度が観客の強い反発を呼んだのも、そうした感情の表れだった。
当時の代替選手はすでに全員現役を退いている。ストライキも95年以降の25年間は一度もない。仮に今後起きたとしても、ほとんど誰も得をしなかった代替選手のアイデアが再び浮上するとは考えられない。ブッシュやミラーのような悲劇が繰り返されることはないと信じたい。
文●出野哲也
【著者プロフィール】
いでの・てつや。1970年生まれ。『スラッガー』で「ダークサイドMLB――“裏歴史の主人公たち”」を連載中。NBA専門誌『ダンクシュート』にも寄稿。著書に『メジャー・リーグ球団史』『プロ野球「ドラフト」総検証 1965-』(いずれも言視舎)。
「チームから試合に出ろと言われて出ただけだし、問題になることはないと言われていた」はずのダミアン・ミラーは、ダイヤモンドバックスの正捕手になったが、99年に地区優勝した時も、01年にワールドシリーズを制覇したと時も、記念のTシャツに彼の名はなかった。ストライキから6年、チームに加わって4年が経っていたのにまだ差別は続いていたのだ。
02年に世界一になったエンジェルスではブレンダン・ドネリーが同じ立場で、市販用のTシャツにやはり彼の名はなく、彼と家族用にわざわざ別のシャツが用意された。明るいキャラクターで人気を集めたケビン・ミラーでさえ、04年のレッドソックス世界一記念グッズから除外されている。ヤンキースが96年に世界一となった際には、ジョージ・スタインブレナー・オーナーが選手会の反対を無視し、3人の代替選手にボーナスとチャンピオンリングを与えたが、このような例は稀だった。
けれども、もともとプロ選手ですらなかった者にとっては、メジャーリーガー気分を味わえた良い思い出でもあったようだ。大学までで野球を諦め、造園業の会社を営んでいたババ・ワグノンもその一人。彼はメッツのキャンプに参加した経験をこう語っている。
「本物のメジャーの監督やコーチに指導してもらったんだ。今じゃその教えがソフトボールのコーチとして役立っているよ。クビになった時も、メッツのロゴ入りバッグを持ち帰れたしね」
選手会の立場からすれば、ストライキ破りを認めるわけにいかないのは当然だ。とはいえ、代替選手にも彼らなりの立場や言い分があったわけで、少しくらいはそれに耳を貸しても良さそうなもの。
メジャー通算422セーブを挙げたビリー・ワグナーは当時マイナーリーガーで、アストロズからキャンプへの参加を求められたが「いずれメジャーに上がれる自信があったから断った。でもそうじゃない選手には、金を稼げるチャンスだったんだから、間違いだったとは言えない」と同情を寄せる。一方でリリーフ左腕のマイク・マイヤーズは「断ろうと思えば断れたはずだし、実際そうした奴もいたんだから」と突き放している。
1960年代にマービン・ミラーが事務局長に就任して以降、選手会は自らの権利に目覚め、オーナー側の言いなりにはならなくなっていった。年俸調停やフリー・エージェントなどの制度を通じて、選手の待遇は劇的に改善された。その反面、ストライキにより72年は開幕が遅れ、81年はシーズンが中断し異例の前後期制が採用されるなど、労使紛争がファンの楽しみを奪う事態も何度となく発生した。代替選手に対する選手会の態度が観客の強い反発を呼んだのも、そうした感情の表れだった。
当時の代替選手はすでに全員現役を退いている。ストライキも95年以降の25年間は一度もない。仮に今後起きたとしても、ほとんど誰も得をしなかった代替選手のアイデアが再び浮上するとは考えられない。ブッシュやミラーのような悲劇が繰り返されることはないと信じたい。
文●出野哲也
【著者プロフィール】
いでの・てつや。1970年生まれ。『スラッガー』で「ダークサイドMLB――“裏歴史の主人公たち”」を連載中。NBA専門誌『ダンクシュート』にも寄稿。著書に『メジャー・リーグ球団史』『プロ野球「ドラフト」総検証 1965-』(いずれも言視舎)。